はじめに

「狗奴国本貫の神武天皇が建てた大和王権」説の裏付け

   私は卑弥呼の銅鏡百枚を研究する中で、狗奴国(くなこく)に興味をもち、色々と検討してみた。『三国志魏書』東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)で卑弥呼の邪馬台国と敵対したと記された狗奴国は、邪馬台国ほどに考察されてこなかった。狗奴国とはどのような国であったのか?
 古史書で、狗奴国は二回紹介される。一つは陳寿(233〜287年)が著した『魏志倭人伝』で、「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」、および「其八年太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之」とある。 狗奴国は倭国の一国であり、女王卑弥呼が都する邪馬台国とその傍国からなる邪馬台国連合の南に位置するが、独自の王を戴いていて、連合に属していなかった。そして正始八年(247年)に狗奴国と邪馬台国連合は互いに攻撃し合う状態になった事がわかる。
   もう一つは、劉宋代(420〜479年)に范曄(398〜445年)により著された『後漢書』東夷伝倭条(『後漢書』倭伝)(432年)で、「自女王國 東渡海千餘里 至狗奴國 雖皆倭種 而不属女王」と記述され、「狗奴国」は「女王国」=「邪馬台国」よりはるか海を隔てた東に位置すると著されている。范曄(はん よう)の記述に従えば、狗奴国は本州島の河内・大和国にあるように読みとれる。421年に倭王「讃」が劉宋の建国直後に朝貢している。私は讃を応神天皇とする。諡号「誉田別天皇」の「誉」が「讃」に通じるからである。応神王朝には「倭漢(やまとのあや)」と呼ばれる多くの帰化漢人がいた。彼らが、漢文でしたためた書状を作るか、朝貢に同行したのであろう。范曄は「讃」の遣使を聴聞して、「狗奴国後裔が大和王権を興した」との情報を得たとしたい。その内容は、「大和王権を創ったのは狗奴国人であった。その大和国は女王国があった筑紫から、はるか海を渡った東にある」であったのだろう。その新情報に基づき『魏書』東夷伝倭人条を引用した倭国の記述のうち、狗奴国の位置を書き改めたと理解する。それが、「自女王國 東渡海千餘里 至狗奴國」である。
   私は、『古事記』、『日本書紀』を読み解く中で、九州の日向から東征に向かった磐余彦(後の神武天皇)が大和国で初期大和王権を樹立したと理解した。そうであれば、『後漢書』倭伝が記す「狗奴国」は大和王権を表すとみなすことは不合理ではない。つまり、大和王権を樹立したのは狗奴国であると考えた。私は、神武天皇を狗奴国人であるとし、「狗奴国」は奴国の一部集団が奴国から離脱して興した「鉅奴国=大奴国」であると考えた。奇想天外な妄想と思われるかもしれないが、史実を示しつつ、「狗奴国」を主人公にして、古代の倭国・日本を論考していきたい。
   私は、歴史を作ったのはその時代を生きた人間の情念のはずと考える。本書では理系の視点と論法でもって『記紀』を解読し、理系の学者による「血の通った人間の息吹が感じられる古代史」をうち立てることにした。