「狗奴国」は「鉅奴国」である

   その後、奴国と伊都国の周辺の邑々も国としての体勢を整える様になり、幾つもの国がうまれた。伊都国は周辺の国々に勢力を及ぼすとともに従属させ、都となり代々王を輩出した(「世有王」『魏志倭人伝』)。107年に伊都国の王は、後漢の安帝に朝貢して生口160人を献上し、あらためて、漢の冊封体制に入った(『後漢書』倭伝)。他方、奴国では、伊都国の輩出する王を戴くことを不満に思う勢力が生まれた。その集団は、奴国を離れ、後の邪馬台国の南方域に移り、「鉅奴国」を興した。『三国志』の記述では、国名や人名には卑字が当てられている。当然「狗」も卑字である。私は、この「狗」は「鉅」の卑字であると考える。華夏の史書の『山海経』に遼東・遼西地域を支配した「鉅燕」という国が出てくる。これは、「大燕」という意味で、大きく国土を拡大した燕国ということである。『山海経』(第十二 海内北經:紀元前後成立)は、「蓋國在鉅燕 南倭北倭屬燕」(蓋国は鉅燕に在り、南倭北倭は燕に属す)と記し、この時(紀元前285〜222年)、既に倭国は鉅燕に朝貢していたことがわかるのである。つまり倭人は、「鉅」は「大」・「巨大」を意味することを知っていたとしたい。奴国の分国である「鉅奴国」は「大奴国」を唱えたのだ。そして、鉅奴国は倭国の覇権を伊都国と争った。『魏志倭人伝』は記す「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」(其の国もまた元々男子を王として七八十年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った)。また、『後漢書』倭伝が記す「桓靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」(桓帝・霊帝の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし)。いわゆる「倭国大乱」である。乱の期間は180年前後数年としたい。

   倭国では、伊都国陣営と狗奴国の覇権争いの結果、伊都国が優位になり、伊都国出身の卑弥呼が188年頃に女王に共立され、邪馬台国を都として興し、倭国は暫時鎮まった。卑弥呼は建安中(196〜220年)頃から、帯方郡を通じて遼東地域を支配する公孫氏と長年にわたり交流を持ち、文化・文明の移植に努めた(「建安中 公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡 遣公孫模 張敞等收集遺民 興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂屬帶方」『三国志魏書』馬韓伝)。その後、238年公孫氏が魏に滅ぼされると直ぐさま(239年)、卑弥呼は魏に朝貢している。卑弥呼は、大陸の勢力図をしっかりと注視していたのである。故に、邪馬台国の時代、一部の倭人(日本人)は十分に漢語の素養を持っていたといえる(百済からの帰化漢人の王仁が初めて漢字を伝えたのではない)。また、後漢に朝貢したことのある奴国も同様であり、その分国が、「大奴国」=「鉅奴国」を唱えても不合理ではない。