卑弥呼と卑弥弓呼

   倭国大乱の時、一つの悲劇が起こった。乱の前、奴国と伊都国は融和を図るため、伊都国の卑弥呼と奴国の卑弥弓呼(ひみここ)は結婚していた。政略結婚ではあったものの、乱の最中だけでなく、乱の後もしばらくは、二人は仲睦ましく暮らしていた。この時、二人は三人の女子を儲けていた(後に宗形三女神に神格化された)。しかし、188年頃に卑弥呼が女王に共立され、邪馬台国を興すと、奴国出身の卑弥弓呼は卑弥呼と離別せざるをえなくなり、「鉅奴国」に移り、王に推載された。そこで狗古智卑狗を儲けた。他方、卑弥呼は、鉅奴国との小規模の戦を行いつつも、出身一族の男との間に五人の男子を儲けた。戦に勝利した時儲けた御子を「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳」と名付けた。さらに天穂日と天津彦根を儲けたが、他の二人は夭折した。その後、高齢に成った卑弥呼は、宮殿に籠もり、卑弥呼の男弟が外部との交渉役を務めるようになった(「事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者」『魏志倭人伝』)。

   時は、魏蜀呉鼎立時代である。鉅奴国王の卑弥弓呼は、「倭国は華夏の王朝の属国になるべきではない」と考えていた。魏は強国である。 その曹操の大軍を赤壁の戦い(208年)で撃破った孫権の建てた呉も強国である。どちらかの国と同盟を結べば、他国から敵国視される。攻め込まれれば倭国は滅ぼされ、属領にされる。奴国本貫とする卑弥弓呼は三韓半島を訪れたことがあり、三韓半島が漢の楽浪郡や公孫氏の帯方郡の支配のもと属領地化されて化外の地となっている実情(「其俗少綱紀 国邑雖有主帥 邑落雜居 不能善相制御 無跪拜之禮 居處作草屋土室 形如家 其戸在上 舉家共在中・・・不以金銀錦繍為珍」『三国志魏書』馬韓伝)を、知っていた。それ故、卑弥弓呼は、「華夏の王朝への朝貢と引き換えに安定を得る冊封体制下で国を治める」ことを「正義」としなかった。女王卑弥呼が遼東に半独立国を維持する公孫氏と交流している間は、卑弥弓呼も不満に思わなかった。しかし、238年、公孫氏が魏に滅ぼされると、すぐさま卑弥呼は魏に朝貢し、魏の冊封体制に入って、倭国の安定を選んだ。さらに、魏の遣使団を倭国に招聘し、倭国の国勢を晒してしまった。卑弥弓呼は、卑弥呼の政策を愚策として和せず(「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和」『魏志倭人伝』)、これ以後、卑弥呼の率いる邪馬台国連合と倭国の統帥権をかけた戦いを繰り返していくのである。時は240年であった。

 呉に目を向けてみよう。孫権は、人口の少ない長江流域に政権を樹立しており、曹操の大軍を赤壁の戦い(208年)で撃破ったように戦略に優れてはいるが、兵力の増大強化は宿願であった。230年、孫権は、二人の将軍と武装兵一万を派遣して夷州と亶州(たんしゅう)を海中に探索させ、将軍達は夷州の住民数千人を徴兵した。また、234年には、山越から六万人を徴兵した(『三国志呉書』呉主伝第二 孫権条)。いずれも、兵力増大のための徴兵であった。亶州は九州島をさすようである。もし、呉の冊封体制に入っていれば、何万人もの倭人が軍役に駆出され、多大な犠牲を出していたであろう。また、呉と魏との両面外交をした公孫氏や高句麗は、それぞれ魏により滅ぼされるか、討伐に合っている(244年『三国史記』高句麗本紀 東川王条)。卑弥弓呼の危惧も宜なるかな、である。幸いにして、呉の孫権は倭国に関心をむけなかった。内政が混乱していたからである。結果として、卑弥弓呼の危惧は杞憂であった。この卑弥弓呼の外交政策を、神武天皇から始まる狗奴国王統の初期大和王権は踏襲した(華夏王朝への朝貢が無い、いわゆる「空白の四世紀」である)。