狗奴国の位置を考える

   では、狗奴国は、倭国の中のどこにあると『魏志倭人伝』に記されているのか? 狗奴国は、卑弥呼を女王と戴く二十カ国(邪馬台国連合とする)の南に位置し「其南有狗奴國」、独自に男王を戴き、女王には属していなかった「男子爲王其官有狗古智卑狗 不屬女王」。しかし、その前に「次有奴國 此女王境界所盡」として二つ目の奴国が紹介されている。私が考える様に狗奴国は奴国の分国として興ったとすれば、邪馬台国連合の烏奴国が「此女王境界所盡」であり、二つめの「奴国」は「奴国の分国の狗奴国・・」とすべき記述のミスとみるべきであると考える。倭国に二つの奴国は無いのだ。  では、狗奴国はどこにあったのであろうか? 狗奴国の官の狗古智卑狗が「菊池彦」と理解されるということから、通説では熊本県の菊池川流域と比定されている。

   山鹿市の菊池川と方保田川に挟まれた台地上に広がる、弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡として方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡がある。この遺跡での発掘調査の結果、幅8mの大溝をもつ環濠集落であり、多数の溝や100を超える住居跡、多数の土器製作工房や鉄器の鍛冶工房と考えられる遺構が存在し、夥しい数の土器のほか、鉄鏃・刀子・手鎌・石包丁形鉄器・鉄斧などの鉄製品、巴形銅器・銅鏃・小型仿製鏡などの銅製品が出土している。その規模は吉野ヶ里を遥かに凌ぐ遺跡であると想定されている。また、菊池川流域では早くから水田耕作も行なわれており、玉名市両迫間・龍王田の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡では、弥生時代前期の水田跡が確認されている。近くの白川や緑川流域にも下前原遺跡、諏訪原遺跡、小糸山遺跡、山尻遺跡、二子塚遺跡、西弥護免遺跡、狩尾遺跡などの遺跡が存在し、そこでも鉄器の鍛冶工房や多数の鉄製器が検出されている。特に阿蘇山北山麓にある狩尾遺跡では高温度鍛冶が可能であったようである。まさか、阿蘇山のマグマの熱を鍛冶に利用した訳ではないと思うのだが、そうであればおもしろい。また、阿蘇山の南山麓には環濠集落の南鶴遺跡(阿蘇郡白水村吉田)もあり、後述するが、西臼杵郡の高千穂には遠く無い。つまり、山鹿市・菊水町・玉名市・阿蘇市・阿蘇郡を版図にする大きな国があったといえる。これらの遺跡は狗奴国のものとされるが、まだまだ邪馬台国を想定している意見もあるようである(井上修一 邪馬台国大研究:歴史倶楽部168回例会・肥後熊本・吉野ヶ里の旅)(Web)。

   私は、『魏志倭人伝』の記述から、邪馬台国は伊都国の南隣地にあったと想定している。邪馬台国の版図がどれほどであったかは分からないが、邪馬台国傍国の南に狗奴国があったようであるから、菊池川流域は狗奴国の比定地に出来ると考える。私は、狗奴国は鉅奴国つまり大奴国と考えているので、方保田東原遺跡が吉野ヶ里を遥かに凌ぐ版図を持っていると推定されていることは、まさに鉅奴国にふさわしい。また多数の鉄器の鍛冶工房が存在したことから鉄製器が豊富に製造されたことが窺える。私は、狗奴国は奴国の分国と考えているので、古くから半島の弁辰に鉄を採りに行っていた奴国を介して豊富に鉄を移入し、鍛冶の技術を発展させて強力な鉄製武器や鉄製農具を制作出来たと判断する。邪馬台国連合に対して一国で戦争をしかけた狗奴国にふさわしい国勢と武力が窺える。しかし、遺跡から鉄製刀剣類の検出がほとんどない。なぜであろう? 武器は、後の「神武東征」の際、ことごとく持参したのであろう。また、遺跡から甕棺も出土しているようであるが、漢鏡や銅剣などの副葬はないようであり、奴国や伊都国とは異なり、漢鏡や銅剣の副葬の風習を持っていなかったようである。このような理由から、私は、山鹿市の方保田東原遺(図1)を中心とする地域を、通説通り狗奴国つまり鉅奴国(大奴国)と比定したい。

熊本県山鹿市の方保田東原遺
図1. 熊本県山鹿市の方保田東原遺