吾田の笠沙御前(笠沙岬)

   それでは狗奴国の人々が移り住んだ地は何処であったのか? 話を記紀に戻そう。もう一度『記』の邇邇藝の降臨を見てみよう「此地は韓國に向ひ、笠沙御前に真来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國ぞ、かれ、此地はいと吉き地」とある。そして、笠沙御前で邇邇藝は木花之佐久夜毘売と出会い、結婚する。その笠沙御前であるが、宮崎県延岡市の高千穂峡から流れ下る五ヶ瀬川の河口近くにある愛宕山の古名が、笠沙山なのだ(Web)。現在では五ヶ瀬川流域の沖積平野拡大のため、内陸の小山になっているが縄文時代には延岡湾に突き出た岬であり、はじめに笠沙山とよばれ、現在は愛宕山と呼ばれている(図2)。

 延岡市愛宕山の笠沙御前顕彰碑
図2. 延岡市愛宕山の笠沙御前顕彰碑
阿多=吾田(英多、県、安賀多=延岡市)に笠沙岬は実在したのだ。また、「弥生時代の人口分布図」(安本美典『邪馬台国はその後どうなったか』所収)では、ちょうど五ヶ瀬川流域の沖積平野(宮崎県延岡市)あたりは人口過疎域となっている。まさに「空國」(からくに=「韓國」)だったのである。日向の高千穂の二上峯に降臨した瓊瓊杵一行が住む国を目指してたどり着いた所が、現在の延岡市の五ヶ瀬川流域にひろがる肥沃な沖積平野であったと、私は判断する。

 瓊瓊杵一行につづいて、狗奴国の人々が移住してきた。その範囲は、日向灘に沿った平野で、北は五ヶ瀬川から南は一ツ瀬川や大淀川を含む地域を考えている。そこは、入戸火砕流堆積物や鬼界アカホヤ火山灰で覆われ、大淀川や一ツ瀬川の下流域には沖積平野が伸展しつつあったであろう。ここには、私が想定する「日向三代」の時期よりかなり後の古墳時代の古墳群、つまり西都原古墳群、行目古墳群、持田古墳群など多数の古墳が築造されている。後世には発展し、多くの人々と多くの豪族が住んでいたことがうかがえる。シラス台地では陸稲しか作ることが出来ないが、沖積平野では水稲栽培が行えた。瓊瓊杵は名前が示し、『日向國風土記』が記すように水稲の籾を持ってきたようであり、収量が多い水稲の栽培ができるようになったのである。日向の地に移り住んだ狗奴国の人々の人口も増加したであろう。事実この地域には弥生時代の水田耕作遺跡が見つかっている。また、「南九州における古墳時代人骨の人類学的研究」(松下孝幸 1990年 Web)によると、「南九州における男性人骨の形質は、宮崎平野部では北部九州弥生人に類似するグループが存在する。他方、内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似する」と報告されている。宮崎平野部には北部九州弥生人に類似するグループが存在することは、奴国に出自を持つ狗奴国人が宮崎平野に移り住んだことを裏付けているように見えるのは、私だけであろうか。