綿津見大神の宮の正体

   それでは、史実を考えてみよう。兄の海幸彦の大事な釣り鈎を魚にとられ、それを責め立てられて悲嘆する山幸彦を見つけた塩土神は、山幸彦を「綿津見大神の宮」に行かせる。塩土老翁は海神宮のことを事細かく山幸彦に教えることができた。なぜか? 塩土老翁は海神宮出身だったからである。では、海神宮とはどこなのか? 綿津見大神は海人族の王である。その海人の氏族が古代豪族の安曇氏であり、奴国(金印が出土した志賀島一帯)を根拠地としていた。つまり、その海神宮は奴国であり、山幸彦は奴国に出かけていたとしたい。山幸彦が訪問した「綿津見大神の宮」は魚鱗のように家を並べて造った宮殿と著わされている。こうした家並は、当時の日向には無いが、奴国にはあったと判断される(『魏志倭人伝』「東南至奴國・・・二萬餘戸」)。奴国は、長い歴史をもつ大国であり、多数の家並をもつ集落も多くあったであろう。塩土老翁は奴国の先代の倭奴国王の裔孫であった故に、山幸彦を文化の進んだ奴国に遊学するようにしむけたのだ。海神宮の情景は、奴国王の館を描いたとできよう。綿津見が山幸彦を一見して「天津日高の御子」と見抜くのも、山幸彦が奴国を本貫とする狗奴国人であったからである。また、「海驢(あしか)の皮の敷物を八重に敷き、また絹の敷物をその上に八重に敷き、その上に座らせて、数多くの品物を整えて、御馳走」できたのも、奴国王ならではであろう。ニホンアシカは、地付きで回遊はしない動物であるが、現在列島では絶滅してしまっている。ただ、昭和初期には島根県の竹島に棲息していたようであるが、戦後、李承晩が違法に竹島を韓国領に組み込んでからは、韓国人が狩り、絶滅させてしまった。往時には九州島北部にも棲息し、海人である奴国人も狩猟していたであろう。奴国はすでに57年には後漢の洛陽に朝貢するほどの国力を持っていた国である。当然文化的にも高度に発展しており、山幸彦にとっては別世界に思えたであろう。奴国の情景をもとに「綿津見神の宮」すなわち青島を描いたと考えられる。その海神宮で、山幸彦は海神の娘の豊玉姫と結婚し、三年を過ごす。綿津見も豊玉姫も奴国人であり、山幸彦は狗奴国の本貫である奴国の姫と結婚したといえる。そして三年後帰ってみれば日向の地はど田舎のままであった(この話が、「浦島太郎伝説」につながるのかもしれない)。従って、豊玉姫が御子の鵜葺草萱不合を残して帰ったのも奴国であり、同行した(又は、後に派遣されてきた)玉依姫(豊玉姫の妹)も奴国人であるといえる。そして鵜葺草萱不合と結婚し、磐余彦を産んだ。この想定は邇邇藝の日向移住の後も狗奴国と奴国と交流があり、また、奴国人も日向の地に移住し一緒に暮らしていたことを示すといえよう。