薩摩・大隅の隼人と南方説話
(1)神武天皇はインドネシア人!?

   『紀』本文では「日向の襲の高千穂峯に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、槵日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、背宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹の碕に到ります」と記され、『記』とは行程が異なっているようにみえる。この記述から、霧島連山の高千穂峰への降臨説も生まれている。短的に示すと、邇邇藝一行は、宮崎県と鹿児島県との県境の霧島連山の高千穂峰に天降りし、複雑な道行きを経て、鹿児島県川辺郡笠沙町(吾田の長屋の笠狹、現在の南さつま市)の野間岬に至ったということになる。ただし、笠沙町の町史では「笠沙という地名は、字名としても広域地名としても存在しなかったが、多くの伝承や逸話がこの当たり一帯を指し示しており、大正十一年に笠砂村と命名され、昭和十五年に笠沙町と改称された」、とのことである。土地の古名は時間が経ても残存するといわれる。しかし、薩摩半島には「笠沙、笠狹」という地名はもともと実在しなかった事が事実のようである。この事実は、邇邇藝一行が霧島連山の高千穂峰に天降り、薩摩半島の野間岬に至ったとすることは、全くの間違いである事を証明している。

   また、Google Map で野間岬を見ると、山が海岸に迫った地域であり、言っては失礼であるが、邇邇藝一行はなぜこんなに辺鄙なところに行かねばならなかったのか、不思議である。奈良の都に住む『紀』の編者には、はるか遠方の九州島西端の地理は理解出来ず、伝承に従って記述したのであろうか。私は違うと思う。邇邇藝一行の天降り先が、旧鹿児島県川辺郡笠沙町の野間岬とする比定自体が間違っているのだ。野間岬は笠狹碕ではないのだ。
   では、なぜ邇邇藝一行は辺鄙な野間岬に到ったと、考えられたのであろうか? それは、野間岬付け根に阿多郡阿多郷(『和名類聚抄』931〜938年)があったからである。邇邇藝が見初めて結婚した木花開耶姫であるが、本名が『記』で「神阿多都毘売」となっている。さらに邇邇藝と神阿多都毘売の間にできた海幸彦(火照)が、「隼人の阿多君の祖」と割注されており、『紀』でも海幸彦が、「苗裔、諸の隼人等」あるいは「吾田君小橋等の本祖」とされる。しかしながら、重要なことは「隼人」は、ずっと時代が下って景行天皇の熊襲討伐により発見され、歴史に登場するのである(『先代旧事本紀・国造本紀』 九世紀編纂)。さらに、「阿多隼人」は天武十一年七月条で初出するのである。邇邇藝の天降りの時代に薩摩半島に「阿多」と呼ばれる地域があったとは、到底、ありえない。

   また、「隼人」をキーワードとし、『日本神話の研究』(松村武雄 1958年)のほか、いろいろな日本神話の源流の研究論文をとりあげ、『古事記』(次田真幸 講談社学術文庫)の解説がなされている。総合して考察すると、天皇家の恐るべき驚愕の秘密が明かされるのである。それは「天皇家の遠祖はインドネシア人である」ということなのだ。考察してみよう。解説書(『古事記』次田真幸)には、『日本神話の研究』などの成果を取り上げ、日向三代の物語にはインドネシア(セレベス島、パラウ島)やメラネシア方面の説話が源流にあり、また、豊玉姫の「八尋和邇出産」譚の「禁室型説話」も南方未開社会の異族結婚制に由来する物語としている。そしてこれらの神話は隼人族により九州島南部に伝えられたとしている。それ故、薩摩(阿多)・大隅半島にいた隼人はインドネシア系異民族とされている。その他、『古事記・日本書紀の解明』(赤城毅彦)でもインドネシア島嶼の説話をとりあげ、日向三代の物語の起源を南方説話に求めている。また、「因幡のワニはサメなのか」(木村成生『季刊邪馬台国』113号)にも多くの著作が紹介されているが、いずれも南方説話との関連を示している。
   考察を続けよう。邇邇藝が見初めた木花開耶姫の本名が神阿多都毘売である。隼人の根拠地「阿多」の姫であるから、彼女は隼人の女神とされる。つまり、邇邇藝は隼人の女神と結婚したことになる。姫の「火中出産」で産まれた火照(海幸彦)、火進、彦火々出見(山幸彦)は、『記の解説』に従えば、弥生人とインドネシア人の混血という事になる。ここで、「皇統にインドネシア人の血が入った」事になるのだ。その後、山幸彦も鵜葺草萱不合も海人すなわち隼人の女と結婚している。したがって、磐余彦は血脈では立派なインドネシア人(8分の1日本人)になったのである。次田真幸や松村武雄はこの事を認識していたのかどうか、わからないが・・。

   私が疑問に思うのは、古代南九州に、南方の島々から人々が渡来したとして、話す言語は何であったのか? 現代の研究で、台湾、マレーシア、フィリッピン、インドネシアなどの言語は、オーストロネシア語(南島語)とされている。しかし、例えば、蝶をジャワ島で「バジョバジョ」と言い、バリ島では「クプクプ」と言う。ウォレス線で分断されているならまだしも、ウォレス線以西の隣接するこの二島の島民の間でさえ言語が異なる。ウォレス線以東にあるスラウェシ島(セレベス島)の島民の言語はまた異なる(図9)。

ウォレス線
図9. ウォレス線
話は脇にそれるが、スラウェシ島は、私の様な蝶屋にとっては特別な島、「蝶が大きくなる島」で有名なのである。この島の蝶は特異で、同属でも他の島の蝶と比較して、1.5〜2倍の大きさであるのだ。話を戻すと、言語は、島内でも異なる。オーストロネシア語族西部マラヨ・ポリネシア語派でも、南スラウェシ語群、カイリ・パモナ語群、ムナ・ブトン語群の三語群に属する言語が分布するのだ (Web)。スラウェシ島のポソ地方のアルフール族に伝わる昔話「バナナと石」の説話を、吉田敦彦は『日本神話の源流』として取り上げているが、セレベス島のポソ地方のアルフール族は何語を話すのか?この説話は、一体何語で日本に伝わったのか?さらに、薩摩半島の阿多において、一体どのような隼人の賢者が各々の島から伝わった説話を理解し、統合して一つの物語として仕立て上げたというのか? その物語をどのようにして、倭人に伝えたのであろうか? 大いに疑問が尽きない。「隼人渡来人説」は、江戸時代の本居宣長の『古事記伝』には見えないので、江戸時代の知識人(賀茂真淵・平田篤胤など)の間には無かった説といえる。まさに、本居宣長も裸足で逃げ出すほどの「異説」と言わざるをえない。

   普通に考えれば、阿多隼人が、南方説話を南九州に伝えたと解釈することが間違いと見ざるをえないのだ。さらに、邇邇藝が霧島連峰に天降り、薩摩半島の阿多に到り、そこで隼人族と一緒に暮らしたと解釈することも間違いなのだ。