薩摩・大隅の隼人と南方説話
(3)和邇の正体

   山幸彦が海神宮から陸上に戻る時、一尋和邇に乗って帰っている。この「一尋和邇」について、私はサメであると考えている。海で漁をする海人にとってサメは人を襲う恐ろしい魚であり、彼らはサメの生態をよく観察していたはずである。サメは外生殖器をもち、水中で交尾する。オスとメスが、互いの体を巻きつけ合ったり(巻きつき型)、腹をくっつける方法(抱き合い型)、平行して泳ぎながらおこなう方法(寄りそい型、並行型)など、交尾の姿勢は様々ある。サメが海中で人に近づくのは、襲うためだけではなく、人を仲間と間違えて交尾するために接触してくるという研究者もいる。最近、テレビニュースで、魚雷型の探査ロボットの頸部にサメが噛み付く様が放映された。探査ロボットは血を流す訳がないので、サメは獲物と認知して噛み付いた訳ではない。また、サメは噛み付くだけで、食いちぎる様な行動はとらなかった。このサメの行動は、探査ロボットを仲間と間違え、交尾にきたのだ。その姿が撮影されたと考えられる。二尾のサメが交尾する様子から、サメが山幸彦をのせて泳いだとする話がつくられたとしても奇異ではない。

   その後、臨月の豊玉毘売が、山幸彦の元を訪れ、海岸に作られた産屋で出産する。その時豊玉毘売は本性を顕し、「八尋和邇」の姿で出産する。この「八尋和邇出産」譚は南方未開社会の異族結婚制に由来する物語が源流とされている。また、和邇は「鰐魚(ワニザメ)」と記されている。だがしかし、生物学的にはワニザメは存在しない。この場合の和邇は「胎生サメ」とみなしてよいと思う。 ワニは仔を産まないが、サメは仔を産む。サメの中の卵胎生の種(ホホジロザメ、シロワニ、アオザメなど)は受精卵を体内で孵化させて育て、稚子を産む。シロワニでは、体内で、最初に孵化した仔魚が卵や後から孵化した仔魚を食べて育ち、約九ヶ月の妊娠後一メートルに成長した児を産む。また、胎盤性の種(メジロザメの仲間)は胎児を出産する。そして、サメは多産でもある。また、妊娠末期のサメを捕らえて、船上、または陸上に揚げると、苦し紛れではあるが、のたうって出産する(図10)。

胎生サメの陸上出産
図10. 胎生サメの陸上出産
海で漁をする海人にとってサメは人を襲う恐ろしい動物であり、彼らはサメの生態をよく観察していた。そのため、海人は、サメが仔産みをして、多産であることを知っており、安産の象徴としたとするのは合理的である。豊玉毘売が大きな和邇(サメ)の姿になって鵜葺草萱不合を出産したとするのは、姫の安産を「サメの産仔」で予祝したとしたい。勿論、これは猿女君の手によることは、論を待たない。また、木花開耶姫が邇邇藝(瓊瓊杵)の三人の児を同時に出産しているのも、サメの多産にちなんでのことであろう。このように考えると、一人しか児産みしなかった豊玉毘売はシロワニ、多産の木花開耶姫はホホジロザメが安産の表象になるのであろうか。

   後世、「和邇」が「鰐」か「鮫」か、はたまた「竜」かの論争を起こしている。「鰐」と理解した故に豊玉姫の孫の神武天皇を「ワニの家系」とする記事をなにかの書物で見たことがある。人と鰐が性交できる訳がないので、「ワニの家系」は論外である。では、なぜ我々は混乱の中にあるのであろうか。それは、『紀』が「和邇」を「鰐」という漢字で著したからであると私は判断する。おそらく、この漢字は、遡れば「倭の五王」の時代の帰化漢人や呉人、あるいは遣隋使か遣唐使がもたらしたのであろう。ただし、『紀』の編纂時に「鰐」を爬虫類のワニと理解して、使用したかどうか、私にはわからない。同じ音故の「和邇」にたいする「当て字」であろう。『記』の草那藝劒に「草薙剣」を当てたのと同様である。その「鰐」にワニを知る現代人が反応した、「和邇」は「鰐」であり「ワニ」であると。しかし、古来、日本にはワニは棲息しないので、「和邇」・「鰐」がワニであるのかサメであるのかの論争が興ったのである。豊玉姫の本性を「鰐」とする人々は「サメには足がない」と指摘するが、私は「ワニは静かに卵を産む。ワニが仔を産むか?」と反論したい。サメは「仔を産む。陸上に上げられればのたうつ」ので、豊玉姫の本性はサメで良いのだ。古代人、あるいは平安や室町時代のワニを知らない人々が、『記紀』を読んで、「和邇」・「鰐」を爬虫類のワニと覚えたであろうか? それはなかったはずである。そこまで遡らなくても、『古事記伝』でも、「和邇」を「鰐」とするが、具体的な動物像を捕らえていないようである。ただし、背鰭を強く意識し、魚類の一種と判断しているようにみえる。

   「ワニ・サメ」論争は、『紀』の編集者の合理主義と現代人の豊富な知識が引き起こした産物といえよう。何と不毛な論議であるのかと私は嘆きたい。