東遷した邪馬台国連合の
権力者が治めた葦原中国の国々

   これの解明は考古資料を解析するしか無い。なぜならば、東遷した邪馬台国連合の権力者が治めた葦原中国の国々の史料は、後世、天武天皇が記紀編纂時に消滅させてしまったからである。なぜか? それは天武天皇が歴史上最後の狗奴国血統の天皇であったからである。このことは改めて天武天皇の章で詳述する。

   それでは、本論に入ろう。饒速日を祖とする物部氏宗家の領地である河内国および近辺域では多数の銅鐸が出土している。物部氏の根拠地についての論考は、これまで多数の研究がなされているので、ここでは行わない。なぜ饒速日が物部の祖と言われる様になったのかについてはあとで詳しく論考する。大和国では、饒速日は鳥見に至っており、そこから南にある奈良盆地に勢力をおよぼしたであろう、饒速日と同一とされる天照国照彦火明命を主祭神とする「鏡作坐天照御魂神社」がある奈良県磯城郡田原本町について検討してみよう。鏡作坐天照御魂神社の由緒には、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。
今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とある。付近には鏡作伊多神社と鏡作麻気神社、および石見鏡作神社がある。石見鏡作神社は祭神を石凝姥神(鏡などの鋳造師の祖)としている。この鏡作の位置からは、冬至の日、三輪山頂からの日の出、二上山鞍部への日の入りが見られるという大変重要な位置にあるとされている。そしてその近くに弥生時代の大規模な「唐古・鍵遺跡」がある。この遺跡からは、銅鐸の鋳型の破片と銅鐸の破片が出土しており、銅鐸鋳造が行われていた事が窺える。この地では、冬至を教えてくれる三輪山を崇拝する先住民が環濠集落を開発しており、弥生後期になって邪馬台国の後裔が移り住み、青銅器を作っていたように見える。その青銅器は銅鐸であり、古墳時代に入ってからは銅鏡を盛んに鋳造したと、私は考える。遺跡からは河内、近江および紀伊など各地の搬入土器が多く出土することから、これらの地域と活発な交流があった事が窺える。鋳造された銅鐸は大和国内だけではなく、各地に搬出されたであろう。また、私は、三角縁神獣鏡はこの地の鏡師によって作られたと判断している(宮﨑照雄『三角縁神獣鏡が映す大和王権』梓書院)。

   唐古・鍵遺跡から南東にある三輪山麓には広大な纏向遺跡(まきむくいせき)があり、弥生中期から後期の遺物が多数出土している。また、三輪山の山麓には箸墓古墳やホケノ山古墳があり、そのホケノ山古墳から出土したと伝承される大型の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」の写真が三輪明神大神神社にある。この古墳は過去に盗掘を受けていたのである。ホケノ山古墳は古式古墳で、銅鏃約60本の他、鉄鏃約60本、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類10口も埋納されていた。鉄製品が多い。被葬者は不明である。私は、唐古・鍵遺跡から纏向遺跡にかけての大和川の扇状地に移住した邪馬台国後裔の権力者がその被葬者であると考える。「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」を持って埋葬されていたからである。纏向遺跡では銅鐸の破片(飾耳)、桜井市大福遺跡では埋納状態の袈裟襷文銅鐸と銅鐸破片、および近隣の天理市から4口の銅鐸が出土している。もし仮に唐古・鍵遺跡、纏向遺跡および大福遺跡の銅鐸破片が人為的に破壊された銅鐸の破片であり、破棄されたのであれば、銅鐸祭祀に強い政治的圧力がかかり、銅鐸が破壊されて遺棄されたと、推察もできる。そうであれば、古代史のロマンも広がる。しかしながら、唐古・鍵遺跡と大福遺跡では、銅器製造装置の破片も見つかっており、鋳造に失敗した銅鐸を再鋳造するため、打ち壊した失敗作銅鐸の残片とも考えられる。あるいは、鏡作(田原本町)にいた鏡工師が三角縁神獣鏡を鋳造するため、現地に有ったいくつかの銅鐸を破片にして持ち帰ったときの残片とも考えられる。テレビ番組であったが、作って間もない銅鐸を鉄の玄能でたたいても破壊できない。金色に輝く青銅器は錫の含有量が少なく、粘性が強いからである。真っ赤になるまで加熱・冷却してからしか破壊できなかった。この技は、実際に銅鐸を鋳造する鍛冶師しかわからないはずである。とにかく一片か二片の出土では「支配者交代を意味する銅鐸破壊」の証拠とするには不十分である。いずれにしても、銅鐸祭祀の終焉には強い政治的圧力があったのは確かであろう。その政治的圧力については、崇神天皇条で述べる。

   鳥見から東北にある山城国には三角縁神獣鏡が大量に出土した椿井大塚山古墳がある。この古墳の出土品は三角縁神獣鏡があまりにも有名であるが、大型の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」も2面埋納されていた(一面は破片)。この山城の地は『記紀』に従えば、天照大神の三男、天津日子根が山代(=山城、山背)の国造の祖としている。卑弥呼の一族が入植したのだ。相楽郡木津町相楽山から袈裟襷文銅鐸が出土している。淀川水系の木津川の扇状地に卑弥呼の一族が移住し、銅鐸祭祀をしたといえよう。

   丹後地方では先述の天孫彦火明命を御祭神とする元伊勢籠神社(京都府宮津市)があげられる。この神社には海部氏系図が伝わる。海部氏(あまべし)は天香語山の裔孫であり、天香語山の子孫がこの地方を支配したと判断される。宮津市から近い由良川の流域には多数の古墳群が残っており、古墳時代以前から開発が進んでいた事が窺える。宮津市および近隣の舞鶴市と与謝郡からは合計7口の銅鐸が出土している。ここでも銅鐸の祭祀が行なわれていたのだ。由良川は日本海と瀬戸内海を繋ぐ古代の水上交通に重要な河川であった。いかに重要であったかは、崇神天皇段で記す。

   丹後国の西にある但馬国にあたる兵庫県豊岡市とその付近には多数の古墳群が集中している。先述した天之日矛が領有したとされる地域でもある。ここにある絹巻神社と海神社は天火明命を御祭神にしている。これらの神社の近くの気比からは絵画銅鐸(気比銅鐸)が4口出土している。丹後国と但馬国はもともと丹波国の領域であり、丸山川流域の平野も海部氏の支配下にあったとできる。

   紀伊国では、日前(ひのくま)神宮に関して「天照大神の岩戸隠れの時、思兼神が石凝姥神をして『日の像の鏡』を作らせた、その初鋳の一面は小さくて気に入らなかったが、本鋳の一面は美麗であった。初鋳の鏡は紀伊国の日前神であり、本鋳の一面は伊勢大神である」(『古事拾遺』)との伝承がある。私は、その小さな鏡こそ、真経津鏡つまり「銘帯内行花文鏡」の仿製鏡であると判断する。また、『紀伊続風土記』の『国造家譜』(Web)は、「天道根は日前大神と国懸大神の降臨に随従して以後両大神に仕え、後に神武天皇の東征に際して両大神の神体である日像鏡と日矛の二種の神宝を奉戴して紀伊国名草郡に到来した」と記す。日前國懸(ひのくまくにかかす)神宮の社伝は、「神武天皇が天道根命を紀伊国造とし、宝鏡を御霊代に、天照大神を祀らせたのがはじまり」としている。先述した様に、真経津鏡は「遠岐斯鏡」の別名であるから、「天照大神」と見なされても問題はない。天道根は、三十二人の護衛の一人として、饒速日と御子の天香語山とともに天磐船で天降っており(『先代旧事本紀』)、天照大神の霊代の真経津鏡を台与から授かってきていたのだ。そして、天道根と天香語山は紀伊国の熊野村(名草郡)に入っていたのだ。ここは、邪馬台国の後裔には大変重要な地域であったようである。紀伊半島西部の平野域から42口の外縁鈕式銅鐸、扁平鈕式銅鐸、突線鈕式銅鐸が出土している。天道根ら邪馬台国後裔が移住し、銅鐸を作り、祭祀していたとしたい。

   尾張国には熱田神宮があり、有名な草薙剣を御神体とする。草薙剣は倭建(やまとたける)が美夜受姫の経血の日に媾あった後に、姫のもとに留め置いていったと伝わる。姫は尾張国造の乎止与(おとよ)の娘であり、乎止与は饒速日が豊前で天道日女と結婚してなした天香語山の子孫である。つまり、邪馬台国の台与の直系の子孫となる。実は、倭建の話にも邪馬台国後裔と狗奴国後裔との戦いが見て取れるので、その詳細はいずれ述べたい。

   『播磨国風土記』には火明が物語られる。「大汝命は火明命とともに船に乗って播磨灘にやってきた。積荷は稲穂や琴、箱、櫛箱、箕、甕、兜、蚕、錨、鹿、葛の綱、犬などである。船は八丈岩山という山に辿りついた。大汝命は、火明命に山の清水を汲んでくるように命じる。火明命が山に昇って涌き水を汲んで戻ってくると、大汝命の船はもうそこにはいなかった。普段から性格が乱暴で大汝命の言う事を聞かない火明命は八丈岩山に捨てられたのだった。捨てられたことに気がついた火明命は怒り狂い、暴風雨を巻き起こした。大汝命の船は、暴風雨にのまれ、あっという間に難破してしまった。難破した船や、積荷が全て播磨平野に点在する丘になったと伝えられている(例えば、船は船丘、稲穂は稲牟礼丘=稲岡、琴は琴が丘、蚕は日女道丘)」。播磨平野では、火明が大汝(おほなむち)と領有をめぐり争ったことが伺える。播磨平野は、河内の河内湖(現在の大阪湾)に向かう途中にある。天磐船で河内に至るまでに、饒速日一行は播磨国の領主の大汝と戦ったのであろうか。兵庫県姫路市内では銅鐸の鋳型が出土しており、銅鐸の鋳造地であった。その姫路市に近い揖保川沿いに、大型の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」が出土した吉島古墳があった。吉島古墳は消滅してしまっているので被葬者は不明であるが、邪馬台国の後裔とみなせる。播磨平野でも東遷した邪馬台国後裔による銅鐸祭祀が行われていたことが窺われる。

   播磨の隣の摂津国にあたる神戸市の六甲山山麓にある桜ヶ丘、旧称神岡(かみか)から14口の銅鐸と7口の銅戈が出土している。また芦屋にある東求女塚古墳から中型の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」が三角縁神獣鏡とともに出土している。古墳の被葬者は伝説のなかに埋もれてしまっているが、おそらく邪馬台国連合の後裔であろう。近くには西求女塚古墳やヘボソ古墳もあり、三角縁神獣鏡を埋納している。この地域に豪族がいたことがわかる。摂津の国でも東遷した邪馬台国の豪族による銅鐸祭祀が行われていたことが窺える。

   吉備国にあたる岡山県岡山市には多数の三角縁神獣鏡とともに「長生宜子銘内行花文鏡」を埋納していた湯迫車塚古墳があった。この鏡も後漢鏡で内区に「長宜子孫」のかわりに、同じ意味の「長生宜子」を鋳だしている。吉井川、旭川および高粱川がつくる岡山平野には5口の銅鐸と破砕銅鐸の破砕片が出土している。この古墳の被葬者を、安本美典氏は、吉備武彦と想定している。吉備武彦は、景行天皇の命を受け日本武尊ともに東征した人物である。しかし、この古墳は小型で前方後方墳とかなり古式であった。近くにある大型の前方後円墳の鶴山丸山古墳や浦間茶臼山古墳の方が吉備武彦を被葬者にするにふさわしいと思われる。また、吉井川と旭川上流の中国山地には古代吉備の製鉄地帯があり、物部氏関連の伝承がある。ただし、製鉄は古墳時代に入ってからのことである。私は、岡山平野にも物部の氏族および邪馬台国連合の豪族が東遷してきていたと考える。

   讃岐国にあたる香川県高松市にある石清尾山古墳群の中で最大規模を誇る猫塚古墳に「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」が埋納されていた。そして、坂出市、丸亀市および善通寺市を含む讃岐平野では袈裟襷文銅鐸がいくつか出土している。この地域を支配し、卑弥呼の銅鐸を祭祀したのも、邪馬台国出身の豪族と見なしてよいであろう。瀬戸内海対岸の姫路市で袈裟襷文銅鐸の鋳型が出土しており銅鐸の製造工場があったことがわかる。播磨で鋳造された銅鐸が船で讃岐平野まで運ばれたのであろう。

   阿波国にあたる徳島県ではこれまでに50口の銅鐸が出土しており、県別では最大数に達する。例えば、吉野川流域の徳島平野からも多くの銅鐸が出土しており、徳島市にある弥生遺跡の矢野遺跡からは、近畿式銅鐸が、埋納状況がわかる状態で発見されている。また、3面の三角縁神獣鏡が出土した宮谷古墳がある。吉野川市には式内社の伊加加志神社(いかがしじんじゃ)、旧称日命(ひのみこと)大明神がある。御祭神は伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと)と 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)姉弟である。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命の六世孫となっている。伊加賀色許賣命は、八代孝元天皇の妃、九代開化天皇の后で、十代崇神天皇の母とされ、まさに饒速日系統のなかでも出色である。近くには饒速日命五世孫とされる大綜杵命(おおへつきのみこと)祀る御所神社もある。吉野川がつくる洪積平野に、饒速日の後裔が移住し、銅鐸祭祀を大いに行ったのであろう。徳島県下で出土した銅鐸では、袈裟襷文銅鐸が大半を占めるがその鋳型は発見されていない。姫路市の製造工場で鋳造された銅鐸が船で播磨灘から鳴門海峡を渡り、徳島平野まで運ばれたのであろうか。しかし、このルートでは、小舟で危険な鳴門海峡を渡らねばならないので無理であろう。対面の和歌山県御坊市の堅田遺跡からは鋳型と青銅を溶かした溶炉遺構が発見されている。堅田の工房でつくられた銅鐸が、徳島市あたりに渡り、吉野川を遡って運ばれたとしたい。

   近江国にあたる滋賀県野洲市に大岩山古墳群がある。大岩山古墳群がある大岩山の山腹から24口に達する多数の銅鐸が出土している。その中には、日本最大の近畿式銅鐸がある。この古墳群を築いた豪族の氏族は近江安直(おうみのやすのあたい)とされ、『記』では天照大神の孫の天之御影が祖となっている。この地域を支配し、銅鐸を祭祀したのは、卑弥呼の一族の後裔と見なしてよいであろう。

   越前国にあたる福井県では、九頭竜川沿いの坂井郡伊向遺跡で7口の銅鐸が出土している。この近くに饒速日や物部氏を祀る神社はないが、大酋長古墳群がある。この古墳は四世紀初頭から築造され始めたようである。大國主と同じとされる八矛神が出雲から高志国の沼河姫に妻問いに出向いている。この地はその途中に有り、大國主の領有地域とも見られる。国譲り後に邪馬台国連合の豪族が九頭竜川沿いの平野に移住してきたとみても、不合理ではないだろう。

   東三河の豊川市の旧宝飯郡では4口の三遠式銅鐸が出土している。豊川沿いには三河国一宮の砥鹿(とが)神社があり、また、三河国四宮の石巻神社もある。この地方では珍しく、二社ともに御祭神は大己貴命である。この三河国の国造は大木食であり、饒速日命の四世孫となっている。大己貴(大國主)が支配していた豊川沿いに広がる平野に、饒速日の後裔が移住してきていた事が窺える。三遠式銅鐸は浜名湖東岸の遺跡からも出土しており、その地域との関係が深かったことが窺える。

   遠江国にあたる静岡県磐田市の松林山(しょうりんざん)古墳からは「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」が出土している。また、近くには高根山古墳があり、堂山古墳(消滅)があった。これらの古墳の被葬者はいずれも物部氏の後裔が比定されている。そして同市の西の谷遺跡などから三遠式銅鐸が出土している。また、浜松市の遺跡からも三遠式銅鐸や近畿式銅鐸が多数出土している。三遠式銅鐸や近畿式銅鐸(さらに袈裟襷文銅鐸も含め、)に表現される渦巻き文および蕨手文は、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」の雲雷文そのものかその変形である。この事実から、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」と銅鐸祭祀および饒速日を祖とする物部氏は密接に関係していると判断できる。

   「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」を携えた饒速日あるいは火明で表徴される邪馬台国の豪族および物部の氏族が本州島と四国島に広く東遷し、支配した地域で銅鐸を祭祀したことが窺える。銅鐸祭祀については、いずれ詳述したい。

   以上、卑弥呼亡き後の邪馬台国(連合)の後裔がどのように活躍したかを検討してみた。私は以下のように考えたい。
   本州島や四国島に東遷した邪馬台国および邪馬台国連合の豪族や権力者は移住した地域で権力者となって、地域を開発するとともに先進文化を伝えて先住の民の文化発展に貢献した。その後古墳時代にはいって、各地で古墳に埋葬されたり、あるいは神社(祠)に神として祀られた。また、中央政権から直や国造に任命された、と私は考える。