不弥国の物部氏族の東遷と宗形三女神

   本州島や四国島に移住した邪馬台国連合の豪族や権力者の代表格が、「饒速日を君主」とあおぐ物部の氏族であった。そして、この氏族こそ不弥国人であろうと、私は考える。『魏志倭人伝』は記す「(自奴国)東行至不弥國百里」。これは奴国から不弥国に至るための道里である。奴国は二万余戸の国勢をもち、倭国第三位の大国である。地理的には現在の博多湾の東岸から宗像平野あたりまでが奴国の領域と見てもよいのではないだろうか。宗像(=宗形、胸形、以下宗像)の民は安曇の民と同様に海人であった。しかも、この奴国比定の地域には物部氏に関係する神社はみあたらない。それゆえ、奴国から東にある不弥国は、遠賀川流域から現在の北九州市をカバーする地域とみてよいと思われる。通説の宇美町とは異なる私見である。

   248年の卑弥呼の死後、新女王となった台与は卑弥呼の血で穢された地を離れ、邪馬台国をより日の出に近い地に遷都した。そこは卑弥呼の出身地である伊都国から東にある、周防灘に面した京都郡付近であった。「台与の邪馬台国」が京都郡に遷都した当時に、遠賀潟流域に拠点を持つ不弥国の物部氏族は邪馬台国に政略的に急接近した。饒速日の妃となり、天香語山をもうけた天道日女(あめみちひめ)はこの氏族の姫であると、私は考える。天道日女を饒速日と政略結婚させる事により邪馬台国中枢に食い込んだのである。それ故に物部氏の由緒を著した『先代旧事本紀』では、「饒速日命は物部氏の祖」とあらわされたのである。天磐船で河内国に東遷した饒速日は、河内国から大和国に勢力を持つ長髓彦(ながすねひこ)と主従関係を結び、長髓彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日は亡くなった。御炊屋姫が産んだ子が宇摩志麻治(うましまじ)である。饒速日が天照大神(=台与)から賜った天璽瑞宝は、御炊屋姫を介して、宇摩志麻治に伝えられた。天磐船で二十五人の天物部の兵士が饒速日と一緒に東遷してきている。この天物部が河内で宇摩志麻治を主君として仕えたのだ。他方、天香語山は、霊剣の布都御魂 (佐士布都神) をたずさえ(武甕雷が伝えたとも)、護衛の天道根とともに紀伊国の熊野(いや)村に入り、高倉下と名前をかえていた。熊野村で天道根の娘の名草姫をたてて、東征してきた神武軍と戦うが負けて、持っていた布都御魂を神武に献上して、帰順する。後に大和国の高尾張邑(後の葛城邑)に移り、原住民の赤銅の八十梟帥(やそたける)とともに再度神武軍と戦うが、八十梟帥は葛の網で捕らえられて皆殺しにされる。天香語山は高尾張邑の女と通婚し、その子孫が尾張氏と海部氏を興すことになる。この詳細は、後述する。

   饒速日の亡骸は、高天原に戻された事になっている。では、どこに葬られたのであろうか。遠賀川流域の鞍手郡(現在は若宮市)に天照神社(てんしょうじんじゃ)があり、そこの御祭神が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命である。縁起では、「第十一代垂仁天皇十六年、宮田町の南に聳える笠置(笠城)山頂に饒速日命が降臨し、同七十七年笠置山頂に奉祀したことに始まる」となっている。垂仁天皇の時代に、笠置(笠城)山頂に饒速日の亡骸が葬られていたことがカミングアウトしたのであろうか。私は、崇神天皇を神格化したのが神武天皇と判断している。故に、饒速日は崇神天皇が大和国に王権を建てる少し前に活躍した人物と理解する。垂仁天皇は崇神天皇の次代の天皇であるので、当時、饒速日の死の記憶は強く残っていたとすることができる。笠置(笠城)山のある遠賀川流域は物部氏族の本貫地と目されるところである。私が比定する不弥国の領域でもある。饒速日の亡骸が葬られたのは、「台与の邪馬台国」ではなく、妃の天道日女の国であったと言えよう。

   ここにはまた、興味ある伝承がある。笠置山がある遠賀川流域の鞍手郡鞍手町には、六獄(六ケ岳)があり、「貴人の亡骸を旭岳に、天冠岳に冠を、羽衣岳には衣を埋葬した」という伝説がある。その主は邇邇藝命と伝わるというという(ひもろぎ逍遥 Web)。その六獄(六ケ岳)にはもう一つ伝承がある。それは、『六嶽神社由緒』で、「宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、孝霊天皇のとき宗像三所に遷幸され宗像大神となった」と記す。『記』では、宗像三女神は、天照大神が誓約で素戔嗚の十拳剣から成りだした三女神であるが、私は、卑弥呼と卑弥弓呼の間に出来た三姉妹と考えた。三姉妹は邇邇藝(=菊池彦)の異腹姉となり、台与とは義理の姉であり、饒速日は甥にあたる。三姉妹が、弟の邇邇藝、あるいは甥の饒速日の葬儀に来た際に、六ケ岳に登り、それが、後世に三女神の降臨として伝承されたのであろうか。伝説の邇邇藝命は、饒速日の誤伝とも考えられるのではないか。

   饒速日後継の氏族には天香語山を始祖とする系統(尾張氏・海部氏・津守氏)と、宇摩志麻治を始祖とする系統(物部氏)がある。その物部の本貫は不弥国である。この地域の出土遺物が物語るのは、物部の氏族は鍛冶が得意で槍鉋や太刀などの鉄器が製造出来たということである。鉄器を使い造船も出来た。また、操船にも長けていた。先に述べた天鳥船や天磐船をはじめ、東遷する邪馬台国の権力者や豪族をのせる船団も造った。出雲に向かった少名毘古那や天鳥船は古遠賀潟から響灘に向かって出航したのかもしれない。古代には、古遠賀潟と洞海湾はつながっていた。そのため、本州島の河内湖(現在の大阪湾)に向かう天磐船や船団は、洞海湾から関門海峡を抜け、「台与の邪馬台国」で権力者や豪族を乗せ、台与に見送られて周防灘に面した港から出航したのであろう。物部氏族は饒速日の天降り(東遷)に積極的に参加し、天香語山に加え二十五部の天物部を随行させている。このようにして、本州島や四国島に進出して、物部氏族の勢力圏を拡大させたのである。それは、また不弥国の版図の拡大でもあった。邪馬台国および邪馬台国連合の豪族や権力者とともに本州島や四国島に進出した物部氏族は、移住先で、邪馬台国の鏡師とともに鍛冶の技を用いて「型の異なる銅鐸」の鋳造を行った、と私は考える。