神武東征
(6)大和での戦い:神武歌謡の鯨

   神武軍を宇陀まで導いた八咫烏であるが、まさか烏が先導したわけではない。『記』の解説では「鴨建津之身(かもたてつのみ)が大烏となり、神武軍を中州に導いた」となっている。中州は吉野川の中州であろう。大烏は比喩である。大陸の古代神話では太陽の霊鳥は三足烏であり、後漢の方格規矩四神鏡では青龍が捧げる太陽に三足烏が表されている。月にはヒキガエルがあり白虎が捧げる。卑弥呼の時代にも方格規矩四神鏡は多数もたらされており、太陽の霊鳥の三足烏の理解はあったと、私は思う。神武軍を道案内した人物は黒い装束を纏い、道を開くため草木をなぎたおす杖(錫杖?)をついていた。そのため三本足の大きな烏にたとえられ、八咫烏と呼ばれたのだ。この説話が後に熊野信仰に取り入れられたとしたい。そして、優勝への導きの神として八咫烏が日本サッカーチームのユニホームのエンブレムに取り入れられたのだ。八咫烏は太陽をデザインした日本国旗の日の丸にふさわしい(図7)。

八咫烏をあしらったJFAのエンブレム
図7. 八咫烏をあしらったJFAのエンブレム

   『記』では宇陀に着いた神武は、八咫烏をつかわして地元の豪族兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとうかし)の兄弟に帰順の意をたずねさせた。弟宇迦斯は帰順したが、兄宇迦斯は仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。帰順した弟宇迦斯は罠のことを神武に報告した。神武は道臣(みちのおみ)と大久米(おおくめ)を兄宇迦斯のもとに遣わした。二人は矢をつがえ、太刀を握って「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死ぬ。そのあと、弟宇迦斯は酒と肉を用意して祝宴をもうける。その時、神武は歌を供する。いわゆる久米歌(来目歌)である。久米歌については、『記紀』の解説やいろいろな人の解釈がこれまでにあるので、ここでは、神武軍が日向の狗奴国と奴国の混成部隊であったことの証明だけをしたい。

   「宇陀の高城に鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくわし 久治良障る・・」。 この歌に「久治良」がでてくる。もちろん罠にかかった兄宇迦斯のことである。『紀』の原文では「區旎等」とあるが、岩波文庫の現代語訳では「鷹等」としており、「區旎」を古語の鷹(くぢ)に当てている。私には解せない。豊田八十代『萬葉動物考』には「和名抄に『百濟俗號此鳥曰倶知(是今時鷹也)』とみえており、鷹の原名は倶知であるが、金澤博士の説によると、鷹も倶知も語原は一つで、ともに蒙古語から来ているといふことである」とある。岩波文庫の『紀』の解説者は、いったいどのようにして、この時代に蒙古語が伝わったとするのか? あるいは、なぜ、百済の俗語をこの解説に持ち込まなくてはならないのか? 全く理をなさない。鴫(しぎ)は川や池に棲むことから類推して、内陸の宇陀には鷹がふさわしいとして古語の鷹(くぢ)を当てたのであろうか? これは、生物学の知識に乏しい文系の学者の貧しい解釈と私は考え、岩波文庫の現代語訳は全くの間違いと見る。また他に、山鯨として猪にあてる説もあるが、これも間違いである。私は「久治良」も「區旎等」もともに「鯨」でよいとしたい。鴫(しぎ)は川や池にも棲むが、海にも棲む。鯨は山にいないが海にいる。神武は鴫も鯨も知っていたのである。神武は日向の高千穂宮で育っている。日向灘には鯨が泳いでいた。浜辺には鴫もいた。鴫罠猟も鯨漁もあったのだ。鯨が捕れれば村は大いに潤った。歌の続き「前妻(こなみ)が 肴乞わさば 立柧稜(たちそば)の實の無けくを 抜きしひゑね 後妻(うわなり)が 肴乞わさば 厳榊(いちさかき)實の多けくを 許多ひゑね」は、捕れた鯨肉の分配の歌である。「子産みの終わった前妻には少しの肉を分け与え、これから子を成す後妻にはたっぷりと肉をあたえよ」という意味である。『記紀』の現代語訳のように、「先妻より後妻の方が可愛い」といって依怙贔屓しているわけではないのだ。もちろん兵士達も鯨漁がわかっていて囃し立てた。日向で育ち、奴国で育っていたからである。わからなかったのは、海を知らない弟宇迦斯とその部下だけであった。

   私は、神武が日向国で暮らしていた狗奴国人であり、鯨を知っていたとの考えである。神武は鯨を知っていたとする伝承が日向国に残っているのだ。日向国臼杵郡(宮崎県日向市)の細島にある鉾島神社の由緒には「神日本磐余彦命、当地より進んで今の枇榔島(びろがじま)辺りにて大鯨の海中に浮沈するを御覧になり、御持ちの鉾を以って、その大鯨を突かせ給ふ」とある(図8)。

宮崎県日向市の鉾島(細島)から見た枇榔(びろう)島
図8. 宮崎県日向市の鉾島(細島)
から見た枇榔島
また、日向国臼杵郡(宮崎県日向市)大字日知屋にある大御神社の由緒には「神武天皇御東征の砌、大鯨を退治された御鉾 (みほこ) を建てられたことから、鉾島とよばれ後に細島と呼ばれるようになった」とある。両社の由緒は、「神武が日向灘で鯨漁をした」と伝承しているのだ。神武は鯨を知っていたのである。本居宣長が『古事記伝』で、「上代には、歌ったところに何の由縁もない他国のことを引っ張り出して詠んだことはなかった」と喝破した様に、神武は、日向国で「鴫罠猟」も「鯨漁」も知っていて、宇陀でこの歌を謡ったのだ。

   そして、現在の陸地に繋がった細島には「伊勢ヶ浜」があり、神武が東征に出発した耳川の美々津は南に遠くはない。また北に向かえば、五十鈴川があり、更に北に下れば五ヶ瀬川の河口の愛宕山(古名の笠沙山=笠沙御前)に至ることができる。その上流に高千穂がある。