神武東征
(9)大和での戦い:神武の勝利(『紀』)

   『紀』では、地域と時系列が異なる。『紀』では、潤色と脚色が多すぎる。「神風の伊勢の海の 大石にや 這ひ廻ろふ 細螺の 細螺の い這ひ廻り・・・」の神武歌謡は、兄磯城=兄師木(えしき)の軍隊が国見の丘に充ち満ちているのをみた神武が勝利を誓約(うけい)した時に謡われている。まさに、海岸の大きな礫岩の上をびっしりと這い回る細螺のように兄磯城の軍がいたのである。神武軍は国見の丘に敵軍を討ち滅ぼす。また、残党を、忍坂の邑で謀をめぐらせて討つ。この戦略は『記』が記す土雲八十梟帥を討ったときと同じである。

   その後、神武軍は磯城郡に侵攻し、磯城兄弟と外交交渉を行うが、兄磯城は反抗する。しかし弟磯城は直ぐさま恭順する。神武はまた軍略をめぐらせて、墨坂の炭火を消火して男軍をだして兄磯城軍を討つ。この後、兄の五瀬を殺した宿敵の長髄彦軍との戦いを始めるが、苦戦を強いられた。豪雨の日、金色の鵄(とび)が飛来して神武の弓の先端にとまる(おそらく雷光であろう。この金色の鵄が、大日本帝国陸軍と海軍の金鵄勲章の由所である)。すると長髄彦軍は全員幻惑され、戦意を喪失する。ひるんだ長髄彦軍に向かい神武軍は攻撃した。この時長髄彦は使者を送って奏上した。長いので略記する。「自分は、天岩船で天降った饒速日を主君とあがめて仕えてきた。天神の御子が二人いるのはおかしい。あとからきたあなた様は天神の御子とたばかって、ひとの国を奪おうとしているのではないかと疑う」。そこで神武は「汝が主君とあがめる者がもつはずの天神の御子との証拠をみせよ」という。長髄彦は、饒速日の天羽羽矢 (ははや) 一本と、歩靫 (かちゆき) を神武に示した。神武はそれをみて「いつわりではない」と言い、帰って所持の天羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示した。長髄彦は、その天の瑞(しるし)を見て、ますます恐縮した。しかし、兵器の用意はすっかり構えられ、その勢いは途中で止めることはできなかった。
そしてなおも、間違った考えを捨てず、改心の気持ちもなかった。長髄彦軍にいた饒速日は、長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分かりそうもないことを見て、義兄である長髄彦を殺害した。
そして、その部下たちを率いて帰順した。『先代旧事本紀』では饒速日ではなく、御子の宇摩志麻治が伯父の長髄彦を誅したことになっている。『先代旧事本紀』は宇摩志麻治についてさらに続ける。神武は、宇摩志麻治に「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えば勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」と特に褒め称え、神剣を与えて大きな勲功に応えた。その神剣が布都主剣(熊野で高倉下が献上した)であったのだ。また、帰順した宇摩志麻治は、天照大神が饒速日に授け、そして受け継いだ天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから) 十種を神武に献上した。そのため、神武はさらに喜び、宇摩志麻治を足尼(すくね)に執り立てて寵愛した。その後、宇摩志麻治は、天物部 (あまのもののべ) を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて大和国内を平定して復命した。

   『紀』では神武自らが軍を率いて、大和国内の三カ処にいた帰順を拒む土蜘蛛(土着の先住民)を撃ち、さらに高尾張邑にいた侏儒(ひきひと、小人)の土蜘蛛の八十梟帥を葛の網で捕らえて皆殺にした。そして、神武は大和の国内を平定し終えた。

   実は、この高尾張邑には、紀伊国の熊野村から天香語山が転身して、入り込んでいたのだ。神武と戦った赤銅の八十梟帥=土蜘蛛の八十梟帥を指揮したのは天香語山であったのだ。しかし、ここでも、赤銅の八十梟帥は葛の網で捕らえられて皆殺しにされ、神武軍に敗北した。それ故に高尾張邑は葛城邑と呼ばれるようになった。この邑に天香語山は残り、地元の姫と通婚し、子孫が尾張氏を興した。その後裔に神功皇后の母となる葛城高顙媛が生まれている。また、尾張氏は現在の愛知県に移り、後世、尾張国造の乎止与(おとよ)と娘の宮簀媛(美夜受姫)がでる。そして、倭建が宮簀媛の許に残した草薙剣を御神体として熱田神宮に祭ることになる。これらの詳細は、それぞれのところで改めて記す。

*高尾張邑にいた侏儒も、第二章の「私の邪馬台国論」で論考したように、亜鉛欠乏症による低身長症の人々としたい。葛城山山麓に亜鉛が少ない土地があったのであろう。

**以上述べた神武東征譚は、神武軍に同行した男の猿女君達が、記憶し、伝承したとしたい。女の猿女君では、行軍に同行することは困難であったと思われるからである。