付(2) 伊勢の海・神風論争

   『記紀』に現れる重要な地域の一つに「伊勢」がある。この「伊勢」の解釈が、『記紀』を読み解くうえで、非常に重要であることに私は気づいた。前述の神武歌謡に出てくる「神風の伊勢の海」についてもう少し考えてみたい。私は、「神風の伊勢の海」を宮崎県日向市の伊勢ヶ浜であり、神風は猿田彦大神が吹かす漁労に好適な風のことであると、解釈した。ところが、多くの見解と通説は、「神風の伊勢の海」は三重県の伊勢市海岸あるいは伊勢湾と解釈している。どちらが理にあっているのか? 考察してみよう。

   本居宣長は、『古事記伝』で、「神風の伊勢の海」をやはり、伊勢国の海としている。そして、「伊勢の海の大石」について、
   「(神武が)、近いわけでもない伊勢の海のことを取り上げて歌ったのは、前にも言ったように、先に熊野を通過して、伊勢との境の錦の浦まで行き、その時(神武)天皇が伊勢の海を見て、目に留めたからだろう。上代には、歌ったところに何の由縁もない他国のことを引っ張り出して詠んだことはなかった。紀の国の錦の浦から、今の道で五里ほど東に、伊勢国度会郡の『贄の浦』というところがある。その十町ほどの海中に、大石と言って大きな岩がある。この歌に詠んだ大石はこれだろう。今もその石に細螺がたくさん付着しているのを、地元では『しりじろ』と言う。そのあたりの人が山詣でをする時、山越えの険しい道があって、往復に七日ほどかかるという。このことは天明三年の冬、荒木田久老が自分でその浦まで出かけて見聞きしたと語ったことだ。その大石も見たそうだ。」と解説している。

   これは、熊野沖で嵐に遭遇した神武の軍舟が漂着した荒坂の津(丹敷浦)(『紀』)を、三重県の錦浦(旧北牟婁郡錦町)と考えたのであろう。確かに、錦町から度会郡南勢町贄浦まで、直線距離では20Km弱であるが、陸上の道程では、結構な距離がある。私も三重大学に在籍中、熊野灘沿岸の紀伊長島、錦浦、方座浦、贄浦のブリやマダイの養殖漁場に病魚採取のため通ったが、高速道路が開通していなかった当時、国道42号線で紀伊長島に至りそこから国道260号線を使い、連続する隧道(トンネル)とくねくね道に悩まされながら東進し、ようやく贄浦にたどりついた。勿論、伊勢市から到る道はなかった。以前は、贄浦は陸の孤島であったのだ。従って、神武が錦浦(丹敷浦)から贄浦に至るには、舟で行くことになるが、リアス式海岸に沿った遠大な航路となる。嵐に遭った神武が、単に「伊勢の海の大石」の上を這い回る細螺を見るために、なにを好んで陸の孤島の贄浦までいかねばならないのか、私には全く理解できない。それに、贄浦は伊勢湾ではなく熊野灘に面しており、神風とは無縁である。他方、仮に漂着地が錦浦ではなく、遺体が漂着した稲飯命を祀る室古神社と三毛入野命を祀る阿古師神社がある熊野市二木島から贄浦に至ったとすれば、その旅程はあまりにも長過ぎ、リアス式海岸特有の暗礁もあって操船が困難である。本居宣長が考える「贄浦の大石」は、「伊勢の海の大石」ではないのである(今に至る伝承もない)。本居宣長は伊勢市の隣の松坂市に住んだが、これ以外に「伊勢の海の大石」を見つけていない。したがって、「伊勢の海」は三重県の伊勢の海ではないとすべきである。本居宣長の地理の誤解釈である。現地研究が全くなく、文献調査だけで『金枝編』を編纂したフレイザーが「安楽椅子の人類学」と揶揄されるが、本居宣長も、地理に関しては「座布団の上の国学」といえるのかもしれない。

   ただし、「生石」の礫石は二見浦、伊勢神宮、猿田彦神社にある。これらは石灰質角礫岩であり、岐阜県産のものが後世に寄進されたのだ。また、それらの所在は細螺が這い回れる処でもない。

   つぎに「神風の伊勢の海」の「神風」について論考してみよう。通説では、「神風」は強風あるいは暴風となっている。「伊勢は風が強いので、それ故に神風を伊勢の枕詞とする」とする説が一般的であるようである。そして、「神風」を吹かす「神」の正体はおぼろげながら天照大神のようにみえるが、「神」の正体は定まっていないようである。しかしながら、南勢部の松坂市や伊勢市は決して強風で有名ではない。伊勢湾岸で、強風で有名なのは「鈴鹿おろし」であり、日本海からの風が鈴鹿山脈を越えて吹き下ろす北西風および西風のことをさす。「鈴鹿おろし」に晒されるのは、北勢地区の菰野、四日市、鈴鹿、津などである(三重大学で学ぶ県外学生は、この「鈴鹿おろし」の強風に驚く)。
   その「鈴鹿おろし」との関係が考えられるのが、『伊勢國號 萬葉集註釋 卷第一』に記される、『伊勢國風土記』逸文の伊勢津彦の逸話である。次に述べる。
   神武天皇の東征に従って伊勢の国に入った天日別尊は、軍を興して国神の伊勢津彦を降伏させ、国土を譲らせる。    兵を發して其の神を戮さむとしき。時に、畏み伏して啓しけらく、「吾が國は悉に天孫に獻らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。天日別命、問ひけらく、「汝の去らむ時は、何を以ちてか驗と為さむ」といへば、啓しけらく、「吾は今夜を以ちて、八風 (やかぜ) を起して海水を吹き、波浪に乘りて東に入らむ。此は則ち吾が却る由なり」とまをしき。天日別命、兵を整へて窺ふに、中夜に及る比、大風四方に起りて波瀾を扇擧 (うちあ) げ、光耀きて日の如く、陸も海も共に朗かに、遂に波に乘りて東にゆきき。 古語に、神風の伊勢の國、常世の浪寄する國と云へるは、蓋しくは此れ、これを謂ふなり (伊勢津彦の神は、近く信濃の國に住ましむ)。天日別命、此の國を懷柔して、天皇に復命まをしき。天皇、大く歡びて、詔りたまひしく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號せよ」とのりたまひて、云々。
   「伊勢国」の命名由来である。ここに出てくる八風こそが「鈴鹿おろし」と呼ばれる強い西風であり、海上の伊勢津彦を東へと運んだのである。三重県菰野町の鈴鹿山脈に八風峠があり、その名を今に伝えている。また、「光輝きて日の如く」とは、八風により起こった波瀾の刺激で発光した夜光虫の光といえよう。多量の夜光虫が発光したのである(図13)。

波打ち際で発光する夜光虫
図13. 波打ち際で発光する夜光虫
従ってここにでてくる伊勢は広い意味の伊勢国(三重県の北中勢域)と理解すべきである。現在の伊勢市を指すのではない。また、『伊勢國風土記』に従えば、「伊勢国」の命名は、神武東征の終了後ということになり、奈良盆地の登美で長髄彦(登美毘古)の軍勢との決戦にのぞむ時点では、「伊勢国」はまだ無かったということなる。従って、神武歌謡で謡われた「神風の伊勢の海」は「現在の伊勢市」でないのは当然の結論となるのだ。

   『萬葉集註釋』は、天台宗の学問僧仙覚が長年にわたり『万葉集』を研究し、その注釈を文永三年(1266年)から文永六年(1269年)にかけて『萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)として完成させた。この『萬葉集註釋』は、「神風」を起こすのは伊勢津彦とする。また、「神風」を疾風あるいは強風と解釈している。萬葉歌人は、『伊勢國風土記』逸文の伊勢津彦譚を解釈して、「伊勢」の「枕詞」の「神風」を疾風あるいは強風と解釈していたと読み取れる。はたして、仙覚の解釈のように、萬葉歌人は伊勢津彦譚をもとに「神風」を理解していたのであろうか? 『伊勢國風土記』の記述は、『紀』の幾つかの逸話を取り込んで組合せていることが歴然としている。それ故、「伊勢」と「神風」の由来を伊勢津彦に帰するのは、後付け解釈ということになる。

   私は、考える。『伊勢國號 萬葉集註釋』も、『古事記伝』も、そして通説も、全てが、「神風の伊勢」を誤って理解しており、「伊勢の海」の地理も同様に誤解釈しているのだ。「伊勢の海」の起源は、神武歌謡の「神風の伊勢の海の生石」にあるのだ。本居宣長が、「上代には、歌ったところに何の由縁もない他国のことを引っ張り出して詠んだことはなかった」と喝破した様に、神武歌謡は、出身地の日向国の「伊勢の海」を謡っていたのだ。日向国(宮崎県日向市と東臼杵郡)に起源を持つ「伊勢の海」、猿田彦大神が吹かせる「神風」、猿田彦大神と天鈿女が至った「五十鈴川」、そして、天鈿女の速贄の「嶋」の全てが、垂仁天皇の時代に天照大神が鎮座したことにより、紀伊半島東端の地に移植されたとするべきなのである。当時、そこにはまだ伊勢・志摩の名はなかったのだ。『紀』が天照大神の言葉と記す「則ち常世の浪の重浪帰する国。傍国の可怜国」つまり「大和国のそばの美しい国」が「原伊勢」の呼称であったのだ。  本居宣長を含め後世の我々が、『記紀』を読む時、地名は『記紀』編纂時の地名が当てはめられていると言うことを認識すべきである。従って、古代の事蹟が実行されていた時点では、多くの土地はまだ地名を持っていなかったとすべきである。古来、三重県に「伊勢」があったわけではない。「志摩」も元は「島」=「嶋」(『先代旧事本紀』国造本紀)であり、後に「志摩」と呼ばれる様になったのだ。

   この見解を導いた「天照大神の伊勢鎮座」譚(『紀』、『倭姫命世紀』)に関する考察は垂仁天皇の章で詳述する。その『倭姫命世紀』には「猿田彦大神の裔の大田命が天照大神を祭る地として、倭姫に五十鈴川川上の地を献上した」あるが、実際は神宮鎮座の後、土豪の大田が「伊勢の海に神風を吹かす」とされる猿田彦大神を取り込み、以後、猿田彦の裔を名乗る様になった。そして後世、猿田彦神社を建てて、子孫の宇治土公宮司家が神社の宮司を務めるようになったと、私は理解する。宇治土公の名は、『斉部氏家牒』(大倭神社註進状)に『稗田阿礼語る所の古事記是也 阿礼は宇治土公庶流。天宇受賣命の末葉なり。』として出てくる。この一文は、猿田彦の裔の宇治土公を宗家とし、「猿」の名を負う天宇受賣を猿田彦の妻とする異説に基づいてのことであろう。

   他方、鈴鹿山脈の麓にも猿田彦大神を祀る椿大神社(伊勢一宮)がある。「鈴鹿おろし」を猿田彦大神が吹かす「神風」とみなして、伊勢の鈴鹿川川上に猿田彦大神を祀るのであれば、理にかなっている(神社が示す由緒は全く異なるが)。したがって、大和王権成立の後世のいつか、日向国の猿田彦大神の「神風」の逸話を知る誰かが、ここに猿田彦大神を移植したと考えても不合理ではない。

* 以上述べたことに基づき、私は、強調したい、「宮崎県日向市(日向国臼杵郡)の鉾島神社と大御神社こそ、猿田彦大神と天鈿女を祭神として祀るべき本命の神社である」と。

参考文献
  • 『古事記』(中)全訳注 次田真幸 講談社学術文庫
  • 『古事記』 原文 Web
  • 『本居宣長 古事記伝』 現代語訳付 雲の筏 Web
  • 『日本書紀』(一) 坂本太郎他校注 岩波文庫
  • 『現代語訳 先代旧事本紀』 ハンドルネーム大田別稲吉 Web
  • 『現代語訳 古語拾遺』 Web
  • 『古語拾遺』資料篇(原文・書き下し文)Web
  • 『倭姫命世紀』 Web
  • 『伊勢國號 萬葉集註釋 卷第一』 「国土としての始原史~風土記逸文」 露草色の郷 Web
  • 『妣が国へ・常世へ』 折口信夫 青空文庫  Web
  • 『霊魂の話』 折口信夫 青空文庫  Web
  • 『日韓がタブーにする半島の歴史』 室谷克美 新潮新書 2010年
  • 「神社・神社信仰の起源」 木下武司 Web