鉄鐸と銅鐸

   記紀などの古書には銅鐸の記録は全くなく、銅鐸がいつ頃から鋳造されるようになったかについては諸説があるだけである。他方、鉄鐸は、『先代旧事本紀』と『古語拾遺』が記す「天岩屋戸」条に、天岩屋戸に籠った天照大神を招きだすために、天目一箇神(あまのめひとつかみ)が種々の刀・斧・鐡鐸(古くは佐那伎〔さなぎ〕と言う)を作ったとある。この時の鉄鐸が鋳造か鍛造か、製法は分からない。そして天鈿売が、鉄鐸を付けた矛を手に持って樽の上で踊ったとあることから、往時は矛や杖などの器具に音を出す飾りとして使用したと思われる。なお、鉄鐸は古墳時代まで見られ、その時代の鉄鐸は、扇形、あるいは台形に裁断した鉄板を丸めるように両端を合わせて鐸身としており、鍛造で作ったとみられる(早野浩二「古墳時代の鉄鐸について」 研究紀要 第9号 2008年 Web)(図1)。

 鉄鐸(さなぎ)
図1. 鉄鐸(さなぎ)
また、240年に倭国を訪れた魏使は、邪馬台国や伊都国など北部九州の国々を探索し、鉄鏃や銅矛を検出しているが(『魏志倭人伝』)、鉄鐸や銅鐸の祖型とされる小銅鐸は見かけなかったようである。