朝鮮小銅鐸

   高倉洋彰氏は「銅鐸の起源と文化」(『戦後50年古代史発掘総まくり』所収)の論文のなかで、弥生時代の九州北部における銅鐸の編年についてまとめ、朝鮮小銅鐸が弥生中期前半に九州北部にもたらされ、それをモデルに小銅鐸が鋳造されていたと述べている。福岡県春日市須玖岡本遺跡群(弥生中期〜後期)の岡本遺跡、坂本遺跡および大谷遺跡から出土した石製鐸鋳型などをその証拠にあげている。福岡県春日市は奴国比定地であり、奴国の鋳造師は小銅鐸を鋳造していたといえる。奴国の前進の倭奴国(ゐなこく)は57年に後漢の洛陽に遣使しているので、洛陽で見た銅鈴や馬鈴を持ち帰り、それをモデルに小銅鐸が作られたと、私は判断する。先述の通り、化外の地の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)には小銅鐸をなにかに利用するというほどの文化はなかったと、『魏志』韓伝から読み解くので、「朝鮮小銅鐸」祖型説に疑問を感じる。逆に、半島では、鍛造鉄鐸が多く、かつ六世紀前葉以降の古墳から出土するようである。日本における鍛造鉄鐸の出土も古墳時代の中小古墳から出土するのと類似する(「古墳時代の鉄鐸について」早野浩二 2008年 Web)。これは、半島では、鉄が採れるが、鐸の鋳造技術がないため、鉄鐸を鋳造できず、鉄板を作り、それを三角形や台形に切り、叩いて丸めて鉄鐸を作ったと考えられる。

  いずれにしても、日本出土の小銅鐸を「朝鮮小銅鐸」と呼ぶのには抵抗を覚える。それに小銅鐸は関東地方では、古墳時代に含まれる遺跡からも検出されており、福岡県および近畿各県で弥生遺跡から出土することとは異なる(「小銅鐸出土地名表」どんたく 2014年 Web)。朝鮮小銅鐸も含め小銅鐸は、大型銅鐸を鋳造する技術あるいは十分な原材料がなかったがために作られた粗製品とみてよいのではと、私は考える。九州北部域では、小銅鐸は集落内およびその周辺域で出土しており、銅鐸とは用法も含め別の物と考える必要がある。この小銅鐸の使用法については先述した鉄鐸のように、往時は矛など長い棒状の道具に音を出す飾りとして使用されたのではないだろうか。

   自虐史観をもつ日本人研究者のなかには、広形銅矛や広形銅戈が朝鮮半島でも出土する事から、これらは三韓半島起源で、半島からの渡来人が倭国で製作にあたったとする意見をみる。この意見は不合理である。『魏志倭人伝』のレポーターは、倭国の種族や風習を鋭く観察している。また、『三国志魏書』弁辰伝は記す「國出鐵 韓濊倭皆從取之」(国には鉄が出る。韓、濊、倭はこれをほしいままに取る)。この短文からわかる事は、魏のレポーターは韓人、濊人、倭人をきちんと識別していた。また、小便で顔を洗う習俗を持つことから濊とよんでいる。韋皮の履物や衣を身につけることから韓人とよんでいる。もし、帰化韓人が列島の倭国で銅矛や銅剣を制作していたのであれば、魏使はそのことをきちんと記録していたはずである。しかし、無い。広形銅矛や広形銅戈は列島ではたくさん出土するが半島では少ないのであれば、倭人(日本人)が、漢の銅矛や銅戈をモデルにして、独自の広形銅矛や広形銅剣をデザインしたとするのが当然である。その製品が半島にもたらされたとすべきなのだ。

   自虐史観をもつ日本人研究者に『魏志倭人伝』時代の三韓の真の状況を、『魏志』韓伝をとりあげ、よく理解してもらおう。馬韓では、「其北方近郡諸国差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚」(その北方、郡諸国近くはやや禮に通暁しているが、遠いところは、囚徒や奴婢が相聚っているに等しい)などと、三韓のうち、もっとも開け、豊かであり、永年、箕氏によって治められていた馬韓でさえこの有様である。他の二国は推して知るべしである。魏の漢人から、文明などその影さえ見られない野蛮な地、化外の地と見られていたのだ。辰韓の地に鉄だけは産出したので、濊人、韓人、倭人(半島南端の倭国=狗邪韓国および列島の倭国)がこれを取りに来ていた。特産物といえば鉄くらいのものであったのだ。このように、魏にとっては何の魅力も無い地域であった。つまり、魏使が特に記すことが無い程の文化的、政治的後進地域、未開の土地、それが三世紀の半島南半分にある三韓の実情であったのだ。それでは、百済と新羅の文化は果たして倭国を凌駕した事があったのだろうか? それは無かった。『隋書』倭国伝は記す「新羅 百濟皆以倭為大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來」(新羅や百済は皆、倭を大国としている。珍物が多く、並んでこれを敬仰し、常に通使を往来させている)。隋も唐も、「新羅と百済はともに、倭国を先端技術産物(手工業製品)が多い文化大国として敬い仰ぎみており、産物をもとめて使者を送っている」と認めていたからこそ、そのことを史書に記録したのである。よく理解してもらいたい。

参考文献
  • 『倭国』毎日新聞社 1993年
  • 『銅鐸の美』毎日新聞社 1995年
  • 『銅鐸の謎 加茂岩倉遺跡』河出書房新社 1997年
  • 『近江の銅鐸と河内の銅鐸』 野洲町立歴史民族博物館 2000年
  • 『銅鐸と日本文化』森浩一 1998年 Web
  • 『戦後50年古代史発掘総まくり』 朝日新聞社 1996年
  • 『古代史発掘』1978-82年新遺跡カタログ 朝日新聞社 1983年
  • 『三角縁神獣鏡が映す大和王権』宮﨑照雄 梓書院 2010年
  • 「小銅鐸出土地名表」どんたく Web
  • 「古墳時代の鉄鐸について」早野浩二『研究紀要』 第9号 2008年 Web
  • 「鉛の同位体比から見た三角縁神獣鏡」 新井宏 Web
  • 「広島市北部の史跡を巡る旅」 平田恵彦 Web
  • 「青谷の骨の物語」井上貴央 鳥取市社会教育事業団 2009年 Web
  • 『魏書』馬韓伝 日中韓・三国通史 堀貞雄 Web
  • 『魏志』韓伝 塚田敬章 Web 
  • 『三国志魏書』弁辰伝 日中韓・三国通史 堀貞雄 Web
  • 『隋書』倭国伝 日中韓・三国通史 堀貞雄 Web