十代崇神天皇
(3)神々の祟りの正体

   崇神五年に、大和国に疫病が流行し、半数の住民が死に至った。崇神天皇は、これを神の祟りと覚えて怖れた。しかし、神の祟りで疫病が流行する訳はない。『記』の記述に基づけば、建甕槌も饒速日とともに河内国に東遷してきており、意富多々泥古を儲けていたといえよう。そして、崇神(=神武)天皇に帰順し、足尼(すくね)となった宇摩志麻治が、この疫病の大流行をとらえて、建甕槌や物部氏族と共謀して芝居をうち、疫病の大流行を神の祟りと怖れる崇神天皇に反撃を挑んだのである。つまり、大國主から、葦原中国を譲り受けたのは邪馬台国であり、狗奴国の崇神(=神武)天皇ではないことを、王権の群臣や国民に覚えさせようとしたのだ。

   その一つが三輪山の祭主権の獲得であったのだ。最初の芝居が、崇神天皇の「夢枕」における大物主神のお告げであった。当時、夜に明かりは無く、あっても月明かりであろう。信心深い崇神天皇が暗闇でお告げを聴けばそれは神の声と覚えるのが当然である。『先代旧事本紀』は記す「この時代には、天皇と神との関係は、まだ遠くなかった。同じ御殿に住み、床を共にするのを普通にしていた」からである。足尼の宇摩志麻治の芝居であったのだろう。

   二番目の芝居は、倭迹迹日百襲姫に対する夢枕による神のお告げであり、物部の大水口宿禰と伊勢麻績君の二人による倭迹迹日百襲姫の神のお告げに対する同調であった。それを信じた崇神天皇は、建甕槌の娘の大田田根子(意富多々泥古)を三輪山の祭主に任命した。宇摩志麻治と物部氏の芝居は見事に成功をもたらしたのだ。

   この事件の後、崇神天皇は、護身用の鉄剣を作らせている(『古語拾遺』)。天皇は、夜の大殿に出没する神(夢枕)にうさんくささを覚え、鉄剣を護身用として備えたのだ。崇神九年に、「矛と楯をもって墨坂神と大坂神を祭れ」という神のお告げを最後に「夢枕」は終わっている。護身用の鉄刀の効果がでたのであろう。この「夢枕」も宇摩志麻治か物部の芝居であったのだ。矛と楯の製造は物部氏の職掌だからである。

   もう一つの企みは、大國主の國譲りは饒速日に対して行われたものであり、崇神(=神武)に対してではない事を、崇神王権の群卿のみならず広く国民に知らしめることであった。それが、大水口宿禰の芝居であった。倭大国魂神が穂積氏の大水口宿禰に憑依して言った言葉「天照大神は天原を治む。天孫は葦原中国の八十魂神を治む。我は『地主の神』(大地官)を治む。天孫がこの事をよく理解して、自分を祭れば天下太平になる」である。大國主とその子供達が治めていた葦原中国の新しい統括者になった崇神(=神武)天皇に、きちんと大國主大神を奉祭せよと説いたのだ。つまり、大國主は台与の邪馬台国(饒速日)に葦原中国の統率権を譲ったのであって、狗奴国(神武)に譲ったのではないと言う事を崇神(=神武)天皇に分からせようと、宇摩志麻治と物部の大水口宿禰が芝居をうったのだ。倭直の子孫の長尾市が倭大国魂神を祭ることはその象徴であったのだ。大國主大神を祀る神社は多く、今も、全国の出雲神社で祀られている。長尾市も宇摩志麻治に与していたのであろう。しかしその子孫の倭直吾子籠が履中天皇即位前に大失態をおかすのだ。そのことは、允恭天皇段でのべる。

   それでは、なぜ崇神五年に住民の半数が死亡するほどの疫病が流行したのであろうか? 原因は新興感染症である。これを書くのは九州の人々に対して心苦しいが、九州の人々に多いリンパ球のウイルス病がある(病名は伏せる)。この病気は現代人では不顕性感染となっているが、水平感染も垂直感染も残っている。邪馬台国の東遷と神武東征によって多数の九州の人々が本州に流入した。そのため、そのウイルスに免疫を持たない本州先住の弥生人や縄文系弥生人が性行為により感染・発症し大量死を起こしたのである。流行は人口が減少すれば、自然に終息する(別に神の采配ではない)。スペイン人が持ち込んだ種々の病原体が南アメリカの原住民を絶滅させたり、また、インドの風土病であったコレラをイギリス人が世界中に広めて多数の死者をだしたのも、新興感染症だからである。