十代崇神天皇
(7)天皇の政治

   崇神天皇は意富多々泥古に三輪山の神を祀らせた後、宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、大坂神に黒色の楯矛を祭った(『記』)。
   崇神九年、夢枕の神のお告げに従って、赤盾八枚と赤矛八竿を以て墨坂神を祠り、黒盾八枚と黒矛八竿で大坂神を祠った(『紀』)。
   崇神天皇は、倭大国魂神の騒動で、「地主の神」を祭る意味を悟ったのだ。だが、今回も夢枕の神のお告げである。倭大国魂神が憑依したのは穂積氏(物部の一派)の大水口宿禰であった。夢のお告げの芝居をしたのも物部であろう。内物部の鍛治師集団が広形銅矛を鋳造する仕事を増やす事ができるようにするために。あるいは、以前、広形銅矛を多数鋳造していた奴国の鍛治師集団(忌部氏に属する)に仕事をあたえるためであったかもしれない。

   ここに出てくる墨坂は磐余彦(=神武)が八十梟帥との戦いの際、真っ赤にに熾した炭を敷き占めて塞がれた坂である。ここで、神武は天香具山の社の土で天平瓮八十枚と巌瓮を作り、「地主の神」と戦勝の誓約(うけい)をした。誓約の方法は煩雑なのでここでは省略するが、結果として神武軍は墨坂を突破し、国見の丘で八十梟帥を撃破った。神武の戦勝を導いた墨坂神に崇神天皇が赤盾と赤矛を捧げて報恩したのである。また、大坂を忍坂と解すれば忍坂の道から神武は女軍を進撃させ、墨坂から男軍を侵攻させ、兄磯城軍の残党を撃破して兄磯城を討取った。この忍坂の神に崇神天皇は、黒盾と黒矛を捧げて報恩したのであろう。大坂は、十年に起こった武埴安彦・吾田姫夫婦の謀反の時、吾田姫の軍勢を撃破った大坂とも考えられる。前年に大坂神を祭ったお陰で、吾田姫軍を撃破る事ができたともいえよう。いずれにしても、墨坂神のように神武の戦勝を九代あとの崇神天皇が報恩していることは不合理である。神武の戦勝の報恩は神武がするのが合理的である。他にも神武と崇神天皇には重なり合うエピソードも多い。それ故、私は、神武の事蹟は崇神天皇の事蹟と見るべきであり、神武は、崇神天皇を神格化させていると判断するのである。