十代崇神天皇
(8)欠史八代

   では、第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までの事蹟を持たない天皇はどうみるかである。『紀』では、崇神天皇の事蹟は五年から始まっているとみてよい。崇神(=神武)が奈良盆地に侵攻して以来、領地を拡大していき、都を磯城の水垣宮に建てて王権を確立し、さらに安定させるまでの間の出来事を、神武から九代の天皇の名のもとに創作したと私は考える。奈良盆地先住の豪族(兄宇迦斯、弟宇迦斯)、および饒速日とともに東遷した邪馬台国・不弥国連合の権力者や豪族の支配に入った在地の豪族(長髄彦など)との戦いに、神武軍には男軍と女軍が加わっており、日向や狗奴国の故地からの増員があったと判断できる。また、大和に領地を確保できれば、日向や狗奴国の故地に残っていた神武(=崇神)の親族郎党(いわゆる皇族)も大和に移住してきたであろう。前述した様に、狗奴国と比定されている熊本県山鹿市の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡は、古墳時代前期には衰退しているようである。住人は、大挙して大和に移住したと推察される。そして、在地の豪族の姫や先に東遷してきていた邪馬台国後裔の姫との結婚が当然あったはずである。第八代孝元天皇と第九代開化天皇の婚姻関係の記述が多くなるのは、それだけ多くの崇神(=神武)の親族郎党が大和に移住してきたからであろう。いわゆる欠史八代の天皇に関する記述は全くのフィクションではなく、狗奴国本貫の天皇の歴代を多く長くするために、崇神(=神武)の親族郎党の事蹟をモデルにして創られたと、私は理解したい。