十代崇神天皇
(9)四道将軍

   崇神十年、「遠荒の人等、なお正朔を受けず。これは王の教化を受けないからである。故に群卿を選んで四方に派遣し、朕の憲を知らしめよ」といって、大彦を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を山陽道に、丹波道主を丹波に派遣した。このいわゆる四道将軍の派遣は、大叔父の武埴安彦・吾田姫夫婦の謀反で中断するが、冬十月に再出発する。そして、十一年四月に四道将軍は戎夷を平定して復命する。これは、畿内はほぼ平定できたが、北陸道、東海道、山陽道、丹波路にまだ崇神天皇に帰順・臣従しない豪族が居た事も表わす。「三角縁神獣鏡」の項で詳述するが、これらの地域で、「三角縁神獣鏡」を埋納していたからといって、その豪族が大和王権に帰順・臣従したとは限らない。大和王権の表徴の仿製内行花文鏡を埋納した墳墓の主こそ、大和王権に帰順・臣従した地方豪族なのだ。例えば、遠江国にあたる静岡県磐田市の松林山古墳からは「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」と「吾作二神二獣三角縁神獣鏡」に加えて仿製内行花文鏡が検出された。被葬者は東遷した邪馬台国の豪族であったが、後に大和王権に帰順・臣従した事が窺える。また、愛知県小牧市甲屋敷古墳や名古屋市白山藪古墳はともに、三角縁神獣鏡と仿製内行花文鏡を埋納しており、被葬者は大和王権に臣従したとみられる。武渟川別に平定されたのであろうか? 武渟川別は会津で、父の大彦と再会している。その会津盆地の阿賀野川流域には、会津大塚古墳を含む一箕古墳群のほか前方後方墳からなる雄国山麓古墳群および亀ガ森古墳群があり、武渟川別かその系列の人の墳墓であるとの説(安本美典氏)もある。会津大塚古墳には三角縁神獣鏡一面のほか変形獣形鏡一面はあるが仿製内行花文鏡の埋納はない。武具は豊富であるが、被葬者は木棺直葬東枕で埋葬されており、大和方式とは異なる(『戦後50年古代史発掘総まくり』)。したがって大和王権との間に緊密な結びつきが窺えない。会津に武渟川別と大彦の再会の伝承があるとはいえ、この地に武渟川別の系列が勢力を占めたとするのは合理的とは言えない。武渟川別と大彦の東北遠征は、翡翠の他、砂金の探索が目的であったともいえる。

   吉備津彦の吉備国平定も、後の天皇達が吉備国出身の姫との政略結婚を繰り返している事から、平定は大きくないが、成果を上げたようである。

   丹波道主を丹波に派遣したのは、丹後のガラスや玉製品(弥生中期の奈具岡遺跡)の獲得もあったであろう。ただし、丹後の弥生中期の峰山町扇谷遺跡や弥生後期の大風呂南遺跡から多量の鉄材が検出されているが、地元での製鉄品ではないようだ(弁辰からの移入が想定される。本格的製鉄は奈良時代から)。製鉄工場の獲得のためではなさそうである。『記』では、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治が主目的であった。この豪族は、由良川流域にいたようである。前に記した由良川から氷上の中央分水界をぬけ加古川を通り摂津、播磨に至る水上航路の支配権を確保するのが目的であったのだろうか? 丹波道主がその支配権を確保したかどうかは分からない。崇神六十五年に狗邪韓国(=大加羅国)から于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)=都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が崇神天皇に謁見するために大和に来ている。そのルートは穴門(=長門)から出雲を通り、丹後半島を越えた後、栗田湾に入らずに敦賀湾に至っている。これでは敦賀から旧北陸道(西近江路)を通って大和に来たことになる。であるとすれば、丹波道主の丹波平定(由良川ー氷上ー加古川の水上交通路の確保)は成功であったとは言えないようである。崇神天皇の時代、まだ、先に東遷した邪馬台国や不弥国の後裔の豪族や権力者の地域支配権を撃破る事は容易ではなかったのだ。

*吉備津彦の吉備国平定が、後の「桃太郎の鬼退治」説話のモチーフになっているといわれているように、吉備津彦の吉備国平定は成果をあげたようにみえる。しかし、鬼(「おに、おぬ」)は強大な力の表徴である。鬼(=温羅)に例えられた吉備国の先住民は、製鉄、製塩、作陶、土木(古墳築造)などで高い文化水準にあったのだ。吉備国に勢力を及ぼした吉備氏は、おそらく先住民の女と通婚した稚武彦の裔孫が興したのであろう。後に遣唐使の吉備真備がでる。『吉備大臣入唐絵詞』では、二回目(751年)に入唐した吉備真備を、長安で客死して鬼と化した阿倍仲麻呂が手助けし、唐朝の漢人官吏が出す無理難題に見事に打ち勝ち、日本人の優秀さを見せつける。ここでも、鬼は吉備氏よりも才が優れている事が暗示されているようにみえる。先住民の魁帥は、東遷した物部を含む邪馬台国連合後裔であったと私は考える。