十代崇神天皇
(11)出雲の神宝と素戔嗚尊と天叢雲剣

   私は、崇神天皇は神を崇拝し、善政を行ったが、物欲と好奇心も強かったと思う。宇摩志麻治より、倭大國魂神(八坂瓊玉)、布津主神(鉄刀)および十種神宝を献上されて大いに喜び、宇摩志麻治を寵愛して足尼(すくね)に取り立てている。また、後述するが、崇神天皇の陪冢とされる天神山古墳には、多量の朱と多数の銅鏡が埋納されていた。これらの鏡の多くは豪族から召し上げた物であろう。そして、崇神六十年、天皇は、出雲大神の宮に納められている神宝を見たいという。神宝は武日照(天夷鳥)が高天原から持って来たものである。天夷鳥は、出雲平定の際、建御雷と布都怒志(布津主)とともに派遣された天穂日の御子であり、天穂日は天照大神(=卑弥呼)の次男になる。その神宝は当然天照大神(=台与)から天穂日が授かった物であり、出雲と関連の深い物とすべきである。それでは、神宝とは何か? それは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、別名草那芸之大刀(『紀』の草薙剣)であると、私は考える。天叢雲剣は素戔嗚が出雲の斐伊川で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時に大蛇の尾から得た剣で、後に天照大神に献上されたという由緒を持つ。

   ここに、一つ問題がある。それは、「体内に剣を仕込んだ蛇が実世界に存在するか?」ということである。生物学的にあり得ない。それに、列島に大蛇が棲息したかといえば、それもありない。では、草那芸之大刀と八岐大蛇との関係を、どのように理解すればよいのか? 換言すれば、出雲国の猿女君(あるいは邪馬台国の猿女君)はどのようにして、八岐大蛇の説話を創作したのであろうか?

   その答えは、最初に草那芸之大刀があり、その大刀に由緒を付与したと考えるのが合理的である。草那芸之大刀は「くさなぎの大刀」である。「くさなぎ」であるが、「なぎ」は「長い」の活用形とみてとれる。「長刀(なぎなた)」の「なぎ」、「長押(なげし)」の「なげ」のごとく「長い」を意味する。「くさ」は「草」で「先が尖った葉」を持つ草(稲、蒲、ショウブなど)であろう。つまり、「くさなぎの剣」とは「尖った刃先を持つ長い剣」と理解できる。したがって、「くさなぎの剣」は一般名称とみなすべきである。いろいろな場面で出てくる十握剣や八握剣が「長い剣」の一般名称であるのと同様なのだ。『玉籤集(ぎょくせんしゅう)裏書』(Web)には、江戸時代、熱田神宮の神官が御神体の草薙剣こっそりのぞいた記録がある。「御神體は長さ二尺七、八寸許り、刃先は菖蒲の葉なりしにて、中程はムクリと厚みあり、本の方六寸許りは、節立て魚等の背骨の如し、色は全体白しと云ふ。」とあり、まさに「草長の大刀」なのである。そして、素戔嗚が得たとされる「くさなぎの剣」の固有名詞が天叢雲剣なのだ(図2)。

草那芸之大刀のモデルと判断する有柄銅剣
図2. 草那芸之大刀のモデルと判断する有柄銅剣

   それでは、なぜ、「くさなぎの剣」に大蛇の話がかぶさったのか?いいかえると、なぜ、「くさなぎの剣」が大蛇の身体から得られたという物語が生まれたのであろうか?それは、「くさなぎ」が「臭蛇」を連想させるからといえる。つまり、「なぎ」と「むなき」は長い蛇状のもの全てを呼称する古語である。「むなき」は鰻(うなぎ)の語源ともいわれる。「くさ」から「臭い=糞」、そして「並外れた(糞力など)」が連想され、合わさって「とてつもなく大きい蛇」が創起されたのだ。その結果、「くさなぎの剣」が「大蛇から得られた剣」という由緒が創作されたといえよう。

   舞台は 鳥髪峰(船通山)の麓を流れる斐伊川(肥の河、簸川)上流の扇状地の稲田である。出雲は出雲蕎が有名であり、往時も稲作ではなく蕎の栽培が主であったのであろう。奇稲田姫の名前から分かるように稲田は広くなく、栄養価の高い米は貴重であった。また、大蛇に振る舞ったとされる酒は米ではなく木の実を醸して作ったとあるのも、米が豊富でなかったことの証左である。大蛇は貴重な稲田を荒らす脅威であったと考えられる。その脅威はまさに斐伊川の扇状地の稲田を荒らす台風や集中豪雨に伴う山津波を比喩しているといえよう。斐伊川上流の船通山の谷に起こる山津波の情景を大蛇に重ねたと私は理解する。天叢雲剣の名前が示すように八岐大蛇の上には雲の叢があったと言われている。つまり、台風の雨雲か集中豪雨の雨雲である。八岐大蛇の形相は、「目は真赤な酸漿のようで、一つの身体に頭が八つ、尾が八つ。胴体に苔がむし、檜や杉が生え、長さは八つの谷と八山峡を這い回り、腹は血でただれている」。この大蛇が出現した場所は、現在の雲南市の斐伊川上流の船通山となっている。このあたりでは古墳時代には砂鉄を原料とする蹈鞴製鉄が行われており、斐伊川の支流の赤川は名前の通り赤色の水が流れていたのであろう。赤い目と赤い腹は酸化した砂鉄の固まりを表している。私事になるが、オーストラリアをたびたび旅行した。彼国は露天掘りの鉄鉱山があることからわかるように、夏の乾季には大陸奥の大地は酸化鉄で真っ赤に染まる。雨期にできる水の流は酸化鉄を含んで赤い水を流す。船通山周囲の山でも、夏に砂鉄が酸化して赤くなり、それを含む山津波を八岐大蛇として表現したと考えられる。では、垣根と八つの門、八つの桟敷と八つの酒槽は何を比喩した物か? それは斐伊川支流沿いに作ったいくつかの遊水池と考えたい。つまり、山の谷からの豪雨を導水路を伝って遊水池に流し、稲田のある扇状地を水害から護るのである。当時そのような土木事業が行えたのかという事であるが、この地に翁夫婦と一人の娘だけがいたわけではない。しかるべき人口があったはずである。池の掘削工事は、環濠集落をみれば分かるように、当時でも十分行う事が出来た。八度も絞った酒とは、堤防の土をしっかりと突き固めた強固な池という意味である。山からの濁流を遊水池に導いて、扇状地の稲田を護ったあと、池の水をしばらく放置し、稲の収穫後に、堤防の一部を壊し、赤い泥水を斐伊川に放水した。濁流が遊水池に入って落ち着いた状態を、大蛇が酒を飲んで眠ったとあらわし、堤の破壊を大蛇の身体を切ったと表わしたのだ。以上のようにして、素戔嗚は斐伊川扇状地の稲田を山津波(八岐大蛇)から護ったのである。草那芸之大刀は大蛇の表徴であるから、当然大蛇の体内から取り出される話となる。その後、素戔嗚は奇稲田姫と結婚した。遊水池は長い時の流れの中で扇状地の厚い土砂に埋もれて、今は無い。これが、八岐大蛇譚の顛末であるといえよう。

   文系の先学は、「大蛇の形で表象される邪霊の暴威(斐伊川の氾濫)を英雄(素戔嗚)の力で鎮め、豊穣が約束された」のが八岐大蛇譚の本質と説明する。これでよいであろうか? 高天原で散々悪事を働き、高天原を追放された素戔嗚を「罪や穢れの権化」と言及しておきながら、掌を返したごとく英雄という。一貫性の無いご都合主義の考えである。また、英雄の霊力だけで川の氾濫を押さえ込めるのか?あり得ない。土木工事が必要であることは言うまでもない。

   他に、出雲は、製鉄で有名である。山で砂鉄を採取する鉄穴流しの泥流が、鉄分が多いため下流の水田に被害を及ぼしたので、農民が八岐大蛇と呼んで怖れたという説もある。また、天叢雲剣を鉄刀とする説もある。しかし、この地での蹈鞴(たたら)製鉄は、現地調査で古墳時代末期から始まったとされている。弥生時代末期にはまだ蹈鞴製鉄はなかった。

   では、天叢雲剣という固有名詞をもらった草那芸之大刀の実像は何か? それは当然、大國主と出雲平定に関わった剣ということになる。私は、出雲平定を行った建御雷が携えた十掬剣(とつかのつるぎ)と考える。建御雷は伊耶佐小浜の波の上に十掬剣を逆さに突き立てて、その切っ先の上に胡坐して大國主と國譲り交渉をした。その十掬剣であり、具体的には、有柄銅剣であろう。この有柄銅剣の石製鋳型が、奴国比定地の福岡県春日市須玖タカウタ遺跡で検出されており(2014年11月13日 Web)、有柄銅剣がこの地で鋳造されていたことは史実である(図3)。

福岡県春日市須玖タカウタ遺跡から見つかった石製鋳型
図3. 福岡県春日市須玖タカウタ遺跡
から見つかった石製鋳型
また、近くの佐賀県鳥栖市安永田遺跡(基肄国比定地)では錫の入った土器が確認されており、錫の含有量の高い青銅の有柄銅剣が作られたとすることは合理的である。錫の含有量の高い青銅は銀白色を呈し、非常に硬いのが特徴である。『記紀』が記す天叢雲剣の性状によく合う。奴国産の優良な有柄銅剣を携えて、建御雷が出雲国で、大國主に国譲りを迫ったと考えたい。それが、十掬剣であり、草那芸之大刀であるのだ。

   以上の考察に従い、『記』の邇邇藝の天降り譚が述べる「五伴緖矣支加而天降也。於是、副賜其遠岐斯八尺勾璁・鏡・及草那藝劒・亦常世思金神 云々」にある、「及草那藝劒」には「遠岐斯(天照大神を招きし)」の形容は付かないないと理解できる。

   八岐大蛇譚がフィクションであれば、当然素戔嗚も誰かを神格化したことになる。私は「卑弥呼の男弟」と考える。彼は、卑弥呼同様に狗奴国との戦争の敗北の責任をとわれ、卑弥呼の死後、邪馬台国を追われ、小舟で投馬国に流れ着いたとしたい。そして、斐伊川上流の扇状地の稲田を護るために、邪馬台国の技術を用いて土木工事をしたのである。天照大神が卑弥呼と台与の二人を神格化したように、素戔嗚も卑弥呼の男弟ともう一人の人物を神格化しているのである。もう一人とは誰か? 正体は、垂仁天皇章で述べる。

   『記紀』では、素戔嗚の六世あるいは七世の孫を大國主(大穴牟遅)とするが、大國主は長じて、根堅洲国(死後の世界)の大王となった素戔嗚を訪問し、素戔嗚の娘の須世理毘売と結婚することになる。いかに死後の世界のこととはいえ、全く時間軸が合わない。ここに『記紀』のトリックがある。出雲で生まれ、長じて葦原中国の統率者になった大國主(大穴牟遅)が、素戔嗚すなわち邪馬台国の血統であるという筋書きをつくるためであると、私は考える。この詳細は後述する。

   話を天叢雲剣に戻そう。出雲平定の後、天照大神(卑弥呼)の次男の天穂日に下賜された。その御子の天夷鳥が出雲大神の宮に神宝として祭り、出雲振根に伝えていた。それを崇神天皇が所望したのである。もちろん、崇神天皇は天叢雲剣の名前を知って興味を覚えたのであろう。その剣を振根の弟の飯入根(いひいりね)がやすやすと崇神天皇に献上してしまった。天叢雲剣は崇神天皇が宮殿で飾った。出雲では、飯入根の軽率な行為に不満を抱く振根と飯入根の間に兄弟喧嘩がおこり、飯入根は謀殺された。また殺した振根も、崇神天皇が派遣した二人の将軍の吉備津彦と武渟川別により誅された。出雲大神の宮では、この混乱のため一時出雲大神の祭祀を中断したほどであった。献上された天叢雲剣は崇神天皇から皇女の豊鍬入姫に託され、天照大神とともに、笠縫邑の磯城の神籬で奉祭された。天叢雲剣の由緒を知らない忌部氏(祭部氏)の記録『古語拾遺』は、天叢雲剣を「草薙釼」あるいは「薙草釼」と記し、天照大神とともに磯城の神籬で奉祭されたと記すのである。先述した様に、斎部氏が天一箇神の末裔の鍛冶を率いて作った鉄刀は、決して「天叢雲剣の形代」ではないのだ。その後、垂仁二十五年に天照大神とともに、天叢雲剣は倭姫の案内で、伊勢神宮に奉安された。ただし、天照大神が諸国漂泊の間、同行したのか、あるいは、天照大神が伊勢神宮に鎮座した後になって、どこからか届けられたのかは、どこにも記されていない。景行四十年、倭建が東国遠征の途中、伊勢神宮に立ち寄り、倭姫から天叢雲剣を授けられる。相模国で地方の豪族に欺かれ、火攻めに合うが倭建は天叢雲剣で自分の周囲の草を薙ぎ、難を切り抜ける。これ故に、天叢雲剣は文字通り「草薙剣」とも呼ばれるようになった。倭建は東国遠征の帰りに尾張の尾張氏の娘宮簀媛のもとに滞在し、初潮の姫と婚あう。そして伊吹山の荒ぶる神を退治するために、草薙剣を姫の許に残したまま出かけ、山の神の毒気にあてられて消耗し、能褒野の地で絶命する。宮簀媛の許に残された草薙剣は尾張国の年魚市郡の熱田神宮に祭られ、御神体として今に伝わっている。

   「宮簀媛」譚は、邪馬台国後裔が狗奴国後裔の倭建から出雲の神宝天叢雲剣を奪い返したことを物語る。この論考は景行天皇章で詳しく述べる。天叢雲剣=草薙剣であるが、青銅剣か鉄刀か、意見がわかれる。私は青銅剣と判断している。その理由も景行天皇章で述べる事にする。