十一代垂仁天皇
(1)天日槍の出石の小刀と皇后狭穂姫の悲恋

    活目入彦五十狭茅(いくめいりびこいさち)天皇(垂仁天皇)即位。垂仁天皇紀には半島諸国からの来朝が記される。

    垂仁二年、狭穂姫を皇后とし、誉津別皇子を儲ける。纒向に都として珠城宮を置く。崇神六十五年に任那国から朝貢した蘇那曷叱知 (そなかしち)が帰国を願い出る。その時、垂仁天皇は任那王への贈答に赤絹百疋を持たせたが、蘇那曷叱知は途中で新羅人に襲われて、赤絹を奪われる(これが任那・新羅間の反目の始まり)。これと同じエピソードが大加羅国(=任那)から来朝した于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)=都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)にもある。名前は異なるが二人は同一人物であろう。垂仁二年条では、都怒我阿羅斯等の任那国での逸話と倭国への渡航の理由が記される。都怒我阿羅斯等が持つ黄牛の対価で得た白い神石から成った美少女(阿加流比売)を追い求めて倭国の難波に来たことになっている。その童女は摂津の比売許曾神社および豊後の比売語曾神社の神となり、二社で祀られている。これは二社の縁起であるが、実際には、大阪市東成区の比売許曾神社の主祭神は下照姫(大國主の娘)に変わっている。ただし、大阪市西淀川区の姫島神社の主祭神が阿迦留姫である。

    垂仁三年、新羅の王子天日槍が、貢献する神宝八物を持って播磨の国に来朝し帰化を求める。天皇は大友主と長尾市を使わして尋問するが、いったい何語を使って対話をしたのであろうか? それはともかくとして、『紀』では、天日槍は貢献の品として羽太の玉、足高の玉、赤石の珠、出石の小刀、出石の矛、日鏡、大刀、熊の神籬の八種神宝を携えてきた。最初は、長尾市らにより播磨の淡路島に住む事を提案されるが、天日槍は、自分の好みの土地に住む事を願い、近江国でしばらく住み、鏡邑に従者の陶人を入植させる。近江国から若狭国を経て、最終的に但馬国の出石に住居をかまえる。そして、地元の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶る。貢献の八種神宝は、いずれも但馬国に納められ、後に出石神社(兵庫県豊岡市)の御神宝となる(『紀』)。
    ここで気になるのは、神宝の中身である。『紀』と『記』では、天日槍(天之日矛)の貢物が異なり、『記』には無い「出石の小刀」と「出石の矛」を『紀』が記すことである。この小刀と矛の名にちなんで、天日槍が定着した地を「出石(いづし)」と呼んだのであろうか。

    垂仁五年、皇后狭穂姫と同母兄狭穂彦王との同母兄妹愛による叛乱が起こる。狭穂彦による皇位簒奪計画である。狭穂彦は、垂仁天皇を暗殺するために皇后狭穂姫に匕首(ひもかたな)をわたす。それはしかりと組んだ紐の付いた小刀(八塩折り紐小刀)であった。その匕首で天皇の首を刺して、殺せということである。しかし、皇后狭穂姫は兄の狭穂彦への愛情に劣らない愛情を天皇に抱いており、暗殺できずに、狭穂彦の天皇暗殺計画を天皇に打ち明けてしまう。怒った天皇が軍を興した時、狭穂彦は堅固な稲城を作って立て籠り、皇軍に攻められても降参しなかった。天皇に攻められる狭穂彦を皇后狭穂姫は悲しみ、誉津別皇子を抱いて稲城に入る。狭穂彦の謀反を許さない天皇は、稲城を焚く。皇后は炎の中で、皇子の助命を願い、自らは、兄と共に焼死する。『記』では、炎上する稲城の中で、臨月であった狭穂姫は出産して、御子を天皇に引き渡す。

    兄との愛に殉じた狭穂姫の悲しい説話である。この稲城であるが、『記』では単に「稲城を作る」とあるが、『紀』は、「稲を積みて城を作る」と記す。皇軍との戦闘に耐えうる堅固さを持っていたようである。であるならば、「稲」は籾や籾殻、あるいは稲穂ではないと考えられる。稲城は、「稲積み」集めて組上げた小規模な砦であり、兄妹はその中に立て籠ったのであろう。「稲積み」は、手鎌で根刈りした稲藁を円錐あるいは円柱形に積み上げたものである(図1)。「日本では農耕が開始された弥生時代に石包丁とともに手鎌が使用され、各地の遺跡から石製や金属製の手鎌が出土している」(Web)ことから、垂仁朝でも稲刈りが行われたといえる。

稲積み(にほ、すづみ)
図1. 穂積み(にほ、すづみ)

    この「稲積み」を関東・東北地方では「にお(にほ)」と呼ぶ。民俗学の先学(松前健・三品彰英・折口信夫・柳田国男など)は、「稲城炎上」譚に関して、「収穫儀礼と穀霊の再生」を願う稲作祭儀をモチーフにした「作り話」と説く。しかしながら、狭穂姫説話は当然、奈良県を含む近畿圏が舞台になっているはずであり、これらの地方では「稲積み」は「すすき」、「すずき」(鈴鹿市を含む北勢では「すづみ」)と呼ばれ、霊的な語義・音韻は無い。脱穀した稲藁は、炊飯や暖をとるための貴重な燃料であり、稲積みは稲藁を貯蔵するために作るのである(昭和の時代にも、大小の稲積が田畝に林立した)。農村では、12月に「田の神=山の神」祭事はあるが、稲藁を集積して燃やす風習は無い(Web)。また、「稲積の慣行の成立と存在意義」(南根裕『比較民族研究』2 1990年)には、「稲積」について緻密な研究がなされているが、「稲積を燃やす」風習を、日本および日本から稲作が伝わった朝鮮半島にも検出していない。

    稲城炎上は、天皇と狭穂彦の戦を表すものなのだ。前述したが、狭穂姫の天皇と兄狭穂彦への愛の葛藤、および炎上する稲城の中で狭穂彦と心中する狭穂姫への天皇の深い愛情を、恋情たっぷりに表したのは、垂仁天皇の宮殿にいた猿女君であろう。この説話は、当時、同母兄妹結婚はタブーであったことを示してもいるのであろうか。