特別編
  三国遺事の新羅王子の話

   新羅の王子の日本渡来譚は確かに、『三国遺事』に載っている。高麗の一然が国中の文献を渉漁して著した『三国遺事』(十三世紀末完成)に、新羅人が日本の王になった話が載っているのだ。略記すると、
   「新羅王第八代阿達羅四年(157年)、延烏が岩に乗って日本に行き、日本の王になった。その妻も日本に行き、夫婦は再会して妻を妃にした。この時新羅では日と月が光を失った。新羅王は日本に使いを送ると、延烏は帰らず、かわりに絹織物をくれた。それを持ち帰ると、新羅に日と月の光が戻った」(『日韓がタブーにする半島の歴史』から引用)。『紀』は記す「崇神六十五年に任那国から朝貢した蘇那曷叱知が、垂仁天皇二年に帰国を願い出る。その時、垂仁天皇は任那王への贈答に赤絹百疋を持たせて帰国さす。ところが、それを知った新羅人が途中で襲って、それを強奪する」。この事件を新羅サイドから著せば、「(あくまでも)新羅人が成った日本国王から美麗な絹織物を贈られ、新羅の輝かしい国宝になった」という様になる。垂仁天皇から任那国王への贈り物の絹織物を強奪しましたと伝える事は、新羅人には屈辱以外なにものでもない。だから史実を改変して伝承したのだ。一然も記す「日本帝紀を調べてみても、(延烏の)前後に日本の王になった新羅人はいない。王と言っても辺境の小王であろう」。都怒我阿羅斯等が穴門(長門)に着いた時、その国の伊都都比古が「吾はこの国の王なり」と言っている。当時倭国では、これが普通であったのだ。仮に新羅人が倭国に帰化して王になっていたとしても、「穴門の王」ごときであろう。『三国遺事』が伝える「新羅人の日本国王」譚は『記紀』の蘇那曷叱知と天日槍の話のやきなおしなのだ。ただ、一然は「日本帝紀を調べた」と記す。十三世紀末の高麗には、『日本帝紀』の写本があったというのだろうか? 1060年成立の『新唐書』日本伝には「・・・至彦瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城 彦瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀・・・・・次皇極」と歴代天皇が紹介されてあり、唐王朝に『日本書紀』の写本(コピー)が渡っていたことは間違いない。統一新羅の王族の誰かが三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)をして許可を得て、唐王朝から『紀』の写本のコピーを取ったのであろうか? あるいは百済に渡った『日本帝紀』の写本が、百済を滅亡させた統一新羅に略奪され、それが高麗王朝に伝わっていたのであろうか? 今となっては分からない。