十一代垂仁天皇
(7)素戔嗚尊の正体

   ではなぜ邇邇藝が天降りした日向の伊勢ヶ浜の地勢に似た伊勢市五十鈴川のほとりに、倭姫は天照大神を鎮座させたのか? 私は以下の様に考える。

   既に述べたことであるが、倭奴国が伊都国と奴国とに分裂後、両国の融和を図る目的で、伊都国の卑弥呼と奴国の卑弥弓呼は結婚した。政略結婚であったが、二人は睦まじく暮らしていた。しかし、奴国に、伊都国出身の王を戴くことに不満を持つ集団が現れ、賛同する邑々を結集して伊都国との戦争を起こした(180年ころの倭国大乱である)。乱後、卑弥呼が女王に共立されて邪馬台国を興すと、卑弥弓呼は卑弥呼と離別し、奴国の不満集団が菊池川ほとり興した狗奴国の王となった。奴国人の卑弥弓呼は三韓半島を訪れたことがあり、後漢の領有地となり化外の地となった半島を理解していた(素戔嗚「此の地は吾居らまく欲せじ」)。三国鼎立時代になり、卑弥呼が魏に朝貢して倭国を魏の冊封体制に組入れ、さらに魏の遣使団を受け入れてしまった。卑弥弓呼は、卑弥呼の外交が倭国を魏の植民地にされかねないと畏れた。卑弥弓呼は倭国の統率権をかけて240年以降、卑弥呼に戦いを挑むことになった。248年の邪馬台国と狗奴国の大戦の後、卑弥弓呼は御子である狗古智卑狗(菊池彦)を日向に移住させた。魏の侵攻を畏れてのことであった。卑弥弓呼親子は、9月5日の皆既日食の朝、卑弥呼が邪馬台国の人々の手にかかって殺害されたことを知った。卑弥弓呼はこれを悲しみ、御子である菊池彦(=瓊瓊杵)に「八葉鈕座内向花文鏡」を卑弥呼の霊代として奉祭していくことを託したのだ。神武東征で、天照大神が狗奴国血統の磐余彦(神武)にも味方したのは、こうした理由があったからなのだ。

   瓊瓊杵(菊池彦)の孫の神武(=崇神)は、宇摩志麻治から瀛都鏡=「八葉鈕座内向花文鏡」を献上させ、豊鋤入姫に奉祭させた。その後、倭姫は天照大神(「八葉鈕座内向花文鏡」)を鎮座させる適所を求めて各地を漂泊し、最終的に遠祖の瓊瓊杵が天降った日向の「伊勢ヶ浜と五十鈴川」と同じ地勢の地(旧度會県、伊勢市)を見いだして、卑弥呼の霊代を祀ったのである。天照大神が言った「高天原に坐して、甕戸(みかど、おうと)に押し張り、むかし見て求めし国の宮処」(私は、「卑弥呼が邪馬台国にいた時、宮殿の堅戸を押し上げて遠望した、常世の敷浪の打ち寄せる処、過去に愛人に連れて行ってもらった美しい処」と読み解く)とは、卑弥呼が夫であった卑弥弓呼と訪れたことのあった「日向の伊勢ヶ浜と五十鈴川」なのだ。内陸の邪馬台国の何処かではない。

   卑弥呼の事蹟は邪馬台国の猿女の君により、天照大神神話として伝承された。そして、『記紀』には、卑弥弓呼は高天原で乱暴狼藉を働いて天照大神を悩ます素戔嗚として著されたのである。また、菊池彦は邇邇藝として著された。結果として、「卑弥弓呼と卑弥呼の男弟(八岐大蛇退治の英雄)」の二人を神格化したのが、素戔嗚の正体なのである。