十一代垂仁天皇
(8)天照大神の遷座・遷幸

   それでは、神宮鎮座に至るまでの天照大神の遷座・遷幸を検討してみよう。
   京都府宮津市にある元伊勢籠神社 (図4) の由緒には「元伊勢とは天照大神が笠縫邑(奈良県桜井市)を出られて伊勢神宮にお鎮まりになるまで巡幸された地を指す。 神社は天照大神が最初に巡幸された神社で、第十代崇神天皇の御代にお遷りになった。 もともと丹後国の総氏神である籠神社のご祭神豊受大神と共に四年間祀られた。その後、天照大神は、第十一代垂仁天皇の御代に、豊受大神は、第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢神宮へ遷られた。それに依り内宮外宮唯一の元伊勢として全国より崇敬を集めている」とある。本殿の造りも伊勢神宮と同じ唯一神明造りであり、天照大神遷座後は天孫彦火明命を主祭神としている。

京都府宮津市の元伊勢籠神社(このじんじゃ)
図4. 京都府宮津市の元伊勢 籠神社(このじんじゃ)

   崇神天皇は、崇神十年、四道将軍の一人、丹波道主を丹波国に派遣して平定させた。その丹波国の宮津の地に、まず、豊鋤入姫は天照大神を巡幸させ、鎮座させようとした。しかし、前述したように但馬・丹後一帯は邪馬台国後裔の権力者が支配した地域であり、狗奴国系の豊鋤入姫にとって、邪馬台国の威勢があまりにも強すぎた。 それで、天照大神を遷座させることになったのであろう。

   『豊鍬入姫命、倭姫命御巡幸歴』と『倭姫命世記』は更に詳しく、天照大神の遷座・遷幸を述べる、
   崇神六年、天照大神は、豊鋤入姫の奉仕のもと、現在の奈良県桜井市と推察される崇神天皇の宮殿から同市の笠縫邑に遷座した。崇神三十九年但波国の元伊勢籠神社に遷座して四年間祭られた。また、笠縫邑に還り八年間奉祭され、崇神五十一年紀伊国日前国懸神宮で三年間奉祭、崇神五十四年遷幸して吉備国の伊勢神社で四年間奉祭されたあと、崇神五十八年大和国(奈良県宇陀市の菟田の篠幡)に還っている。ここで、天照大神の奉祭は、豊鋤入姫から倭姫に交代する。さらに倭姫の奉仕のもと、崇神六十四年伊賀国の宇流冨志禰神社で二年、続いて穴穂宮で四年奉祭を受け、垂仁二年敢都美恵神宮で奉祭される。垂仁四年遷幸して近江国の甲可日雲宮と坂田宮で六年間奉祭、垂仁十年美濃国の伊久良河宮に遷幸して四年間奉祭、その後、尾張国(中嶋宮)、伊勢国(桑名野代官宮)、鈴鹿国(奈其波志忍山宮)を遷幸して、垂仁十八年伊勢国の阿佐加の藤方片樋宮、飯野高宮、佐佐牟江宮、伊蘓宮、瀧原宮、矢田宮、家田田上宮、奈尾之根宮を漂泊した後、垂仁二十六年にようやく伊勢国の五十鈴宮(現伊勢神宮内宮)に鎮座することになった。以上、天照大神の遷座、遷幸は崇神天皇から垂仁天皇の時代、87年間に及ぶ。その後、景行二十年、五百野皇女が伊勢に派遣され、倭姫に代わり天照大神を奉祭するようになる。
   このように天照大神は伊勢の神宮に鎮座するまで、鎮座の最適地を求めて漂泊ともいえる遷座・遷幸を繰り返したのだ。

   遷座・遷幸の理由を考えてみよう。端的に示すと、紀伊国、吉備国、近江国は、常世(太平洋)に臨む「朝日来向ふ国、夕日来向ふ国」ではなかった。伊賀国と美濃国は、内陸であり、「常世の浪の重浪が打ち寄せる」処でない。尾張国は、尾張氏の勢力圏である。伊勢国の桑名、鈴鹿、松阪では、東の海は知多半島や渥美半島が囲む伊勢湾であり、常世からの日の出と敷浪は望めない。倭姫が宮川を遡って、更に険しい山地を南下しても、向かうのは熊野灘である。宮川の上流の瀧原宮が南限であったのだろう。それ故に、上記の地は、理想の鎮座地にはならなかった。最終的に、日出る常世がある太平洋からの敷浪が打ち寄せ、かつ大和国に近い神風の伊勢国(旧度會県、伊勢市)の五十鈴宮が、倭姫の理想とする処であったのだ。

   三重県南勢地域では、銅鐸の検出がほとんどないことから、三重県への邪馬台国後裔の有力な権力者の東遷は無かった様にみえる。先述した『伊勢國風土記』の国神伊勢津彦譚でも、神武天皇の重臣の天日別に国譲りしている。伊勢津彦は大國主の子である出雲建子の別名とされている。大國主の子の百八十柱の神々は、大國主が統率した葦原中国の国々の魁帥(ひとごのかみ)であろうと、私は解析した。大國主の国譲りにおいて、旧度會県は、邪馬台国の権力者の東遷に遭わなかったのであろう。それで、神武(=崇神)天皇が大和に王権を建てたあとの諸国平定で、神武の重臣の天日別が、原住民の魁帥の伊勢津彦から国を奪い、伊勢と命名して支配下に置き、伊勢平野を開拓することになったと考えられる。その伊勢平野の南端の地域の豪族大田命が天照大神を祭る地として、倭姫に五十鈴川川上の地を献上した。倭姫が邇邇藝縁の地名(伊勢ヶ浜、五十鈴川、狭長田)をここに移植したのち、大田命は「伊勢の海に神風を吹かす猿田彦大神」を取り込み、以後、猿田彦の裔孫を名乗る様になったのであろうと、私は解する。
   これから分かることは、三重県は、狗奴国系の権力者が早くから支配下においていた。それで、垂仁朝の時代に倭姫が伊勢国に天照大神を鎮める地を求め、適地を得たのである。その後、天照大神を鎮めた伊勢の地は特異な地域発展を遂げていくのである。
   不思議なことに、天照大神の鎮座は『記』ではほとんど触れられてない。狗奴国系の権力者の支配域でのできごとであったためであろうか?

   以上述べた繰り返された遷座こそ、「遷宮の根源」ではないかと私は考えている。つまり、天照大神は、遷座を運命づけられた神ということである。伊勢神宮に鎮座後も、社域内であるが遷座が繰り返し続けられている。これが式年遷宮である。
   式年遷宮は、天武十四年(685年)制定された。天武天皇は大海人皇子時代におこした壬申の乱の際に、朝明郡迹太川(朝明川)のほとりから伊勢神宮を遥拝して戦勝祈願しており、乱に勝利したことの報恩にあたるのであろう。また。天照大神に奉仕する斎王も制定した。式年遷宮は持統四年(690年)が初回とされ、それから約1300年にわたり継承され、平成二十五年の遷宮は62回目となるとされている (戦国時代には遷宮は行われなかった)。しかしながら、天照大神が伊勢神宮に鎮座した西暦年は不明であるが、少なくとも鎮座後の2、300年ほどの期間は、神館の改築による遷座くらいであったのであろう。天照大神は専属の斎王に奉祭され、20年ごとの式年遷宮を受け続けている。

   それでは、伊勢神宮は王家からそれほどまでに最重要視されてきたかというと、そうでもない。持統四年から式年遷宮が始まったにも拘らず、皇室は、明治五年に明治天皇が参拝するまで、過去千年以上にわたり、伊勢神宮に参拝してこなかったのである。平成天皇は特別であろうか、よく伊勢神宮を訪問される。62回式年遷宮後の平成二十六年3月25〜28日に「剣璽(けんじ)御動座」があり、天皇皇后両陛下が宮中剣璽の間に奉安されている剣と璽(勾玉)を携えて伊勢神宮内宮を訪れられた。護身の剣は、テレビに映る侍従が携える長さ1mほどのケースに入れられていた。璽(勾玉)は同じく約30㎝四方のケースに入れられていた。璽は赤瑪瑙の勾玉と伝わっており、それが正しそうである。他方、賢所に奉安されている形代の天照大神はいかなる事があっても不動である事が慣例となっているので、動座はない。