十一代垂仁天皇
(9)天照大神の正体

   それでは、もう一度、天照大神を論考してみよう。邪馬台国の猿女君が、卑弥呼の活躍を脚色して天照神話神話を創作したことは、前述した。天照大神が天岩屋戸に籠った時に鏡が作られ、天照大神を天の岩屋戸から招き出すため貢献したしたことから「遠岐斯鏡(おきしかがみ)」ともよばれ(『記』)、天照大神の神魂となった。その「遠岐斯鏡」がなまって伝わった「瀛都鏡(おきつかがみ)」、「息津鏡(おきつかがみ)」あるいは「奥津鏡(おきつかがみ)」、および別名の「真経津鏡(まふつかがみ)」とそれがなまって伝わった「辺津鏡(へつかがみ)」、「辺都鏡(へつかがみ)」がある。

   そのうち息津鏡と辺都鏡は元伊勢籠神社に伝わる神宝となっており、実見できる。息津鏡は、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」であり、辺都鏡が「銘帯内行花文鏡」である。当然これらの内行花文鏡は、239年の卑弥呼の遣使により魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚の一部と考えられる。私も、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」こそ、邪馬台国人の子孫繁栄を祈った卑弥呼が、宮殿で祭った鏡であると考え、この鏡を多くの図録で検索した。この類の鏡はいずれも、20〜25㎝の大型鏡が多くあり、「八咫の鏡」にふさわしい。当然の事として、全ての鏡の鈕座は四葉であり、その間に「長・宜・子・孫」の四文字を配置している。

   それでは、天照大神の神魂となった「遠岐斯鏡」=「瀛都鏡」について考えてみよう。この鏡は、神宮内宮の御神体となり神聖不可侵で誰も見る事が許されていない。ただし、1169年の内宮焼失時に、御神体が目撃されたらしく、『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』には、鏡の鏡背の文様は「八頭花崎八葉形也」とある。つまり「八葉鈕座八連弧文内行花文鏡」となる。鏡が八葉鈕座を持つ事は、「長・宜・子・孫」の四文字が「葉」に置き換わっていることを表わしている。実は、これとおなじ文様の鏡が、原田大六氏が発掘をした平原遺跡一号墓出土鏡のなかにある、超巨大な「内行花文鏡」(直径約46㎝)である。ということは、天照大神は、日本で、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」をモデルにして作られた仿製鏡であると理解することができる。中華民国・中華人民共和国の図録をどれだけ検索しても「八葉鈕座雲雷文内行花文鏡」は伝わっていないからである。それでは、仿製鏡の「遠岐斯鏡」の大きさはどのくらいであるのか? 鏡を納めている容器に関しては,古文書に記録が残っている。『皇大神宮儀式帳』には、鏡を入れる「御樋代」の寸法は、「高さ一尺四寸,深さ八寸三分,内径一尺六寸三分,外径二尺」と記されている。また『皇大神宮儀式帳』の記録に従えば,鏡の大きさは内径一尺六寸三分(直径約49㎝)と記されている。しかし、『文永三年内宮遷宮沙汰文』によれば樋代の内には「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、蓋口径九寸であると記録されている。さらには、鏡は「往古より錦袋に納め安置し奉れるを,遷宮の度ごとに新しき袋を調りて旧の袋のままにて納奉る」とされる。蓋口径九寸(約27㎝)の樋代に入り、幾重もの錦袋に納められているとなると、鏡の直径は約27㎝よりも小型であることになる。原田大六氏が発掘をした平原遺跡一号墓出土鏡のなかにある、超巨大な「八葉鈕座内行花文鏡」(直径約46㎝)と同じ物ではない事はたしかである。文様が類似する事から、天照大神は、ほぼ同じ時期に作られた大型の「内行花文鏡」(約20数㎝)となろう。私は、247年の皆既日食を経験した卑弥呼が自らの霊力の衰えを覚え、霊力を蘇らせるために、邪馬台国の鏡師に、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」の仿製鏡を鋳造させたと考える。「内行花文鏡」の八連弧文で囲まれた内区の形が、八方に光を放つ太陽を表わすという(森浩一説)。これは日本人の感性であるが、「日の神」を崇める卑弥呼には、日像(ひのかたち)の鏡である「内行花文鏡」はふさわしい。鏡を真新しくして、霊力の復活を願ったのだ。そして、この鏡が、「八葉鈕座内行花文鏡」であり、当時は、「八咫鏡」とか「日像鏡」と呼ばれ、「邇邇藝の天降り」譚では「遠岐斯鏡」と著されたのだ。

   他方、『古語拾遺』によれば、天照大神は崇神天皇の大殿に祭られていた。「磯城瑞籬の帝(崇神天皇)の時代になって、暫くして、神威を畏れられ、同じ殿に居られると不安で有るため、 斎部氏に石凝姥神(いしこりどめのかみ)の末裔と天一箇神 (あめひとつのかみ)の末裔の二氏を率いさせて鏡を鋳造させ剣を作らせた。 是を護身の御璽とされた。是が今、践祚の日に獻、神の御璽の鏡と剣である」と記す。また、天照国照彦火明命を主祭神とする「鏡作坐天照御魂神社」(奈良県磯城郡田原本町)の由緒には、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。
今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とある。この二つの伝承は、同じ事を表わしているといえる。天照大神の形代が崇神天皇の時代につくられ、形代は宮中の大殿に天皇の護身用として祭られ、天皇践祚の日に御璽としてたてまつられると言う事になる。本物の鏡はその後、伊勢神宮に天照大神の御神体として祭られた。

   宮中に奉安される形代については、竹田恒泰氏『皇室のきょうかしょ』(Web)は、以下の様に記す「天徳四年(960年)、六十二代村上天皇の代に、宮中が火事に遭い、温明殿に祀られていた三種の神器のうち、幸い剣と勾玉は持ち出されて難を逃れたものの、八咫鏡は間に合わず、温明殿ごと焼けてしまった。その焼け跡から3面の鏡が発見され、このとき初めて八咫鏡が3面あったことが分かった。村上天皇の日記には、小さな傷のある直径八寸ほど(約24㎝)の鏡が焼け跡から見つかったと記されている。『紀』の天の岩屋戸譚には、天照大神を外に出そうとした時、岩戸に鏡が当たり、鏡に小傷が付いたという逸話が記されているが、崇神天皇が八咫鏡の形代を作った際に、その小さな傷までも正確に模造したのかも知れない」。

   3面の鏡が発見されたということは、忌部氏配下の鏡師と物部氏配下の鏡師がそれぞれ作った鏡がともに天皇に献上されたのであろう。もう1面はモデルの「息津鏡」(「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」)であったのではないだろうか。これら3面が宮中に伝わったのだ。
   崇神天皇は鏡の蒐集家でもあったようで、陪冢の天神山古墳には23面もの多数の鏡が埋納されていた(奈良国立博物館データベース)。その中の3面は「長宜子孫銘」を持つ「内行花文鏡」であるが、外区が雲雷文ではなく同心円であり、どうも、踏返しの仿製鏡のようである。忌部氏の配下の鏡師に作らせ、自身で所有したのであろう。もう1面は「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」(720ー20)の精品であり、漢鏡であることは間違いない。 崇神天皇は、漢鏡の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」を複数持っていたようである。

   『記紀』編纂時、宮中では天照大神の形代はむき出しで斎祭されていたのであろか? それとも神宮と同様に錦袋に納め「御樋代」に収納されて奉安されていたのであろうか? 村上天皇の日記にある様に八咫鏡が3面あったとして、そのうちの2面は崇神天皇が作らせた形代であったと判断される。仮説としても、『紀』の編纂時、「天の岩屋戸隠れ」譚を記述した時にその記述にあわせて、1面の形代だけにわざわざ小疵を付けたとは考えにくい、たとえ鏡がむき出しで斎祭してあったとしても。であるならば、小疵のついた形代の鏡の実存は、天照大神の天の岩屋戸隠れの神話が実話に基づいていたことを示唆するといえる。私は、248年の皆既日食の朝、卑弥呼が殺害された時の騒動で、元鏡に小疵が付いたと考える。そして、卑弥呼の宮殿の内に逃げ込んで閉じこもった台与に、「張政と卑弥呼の群臣の協議で邪馬台国の新女王に推挙されたこと、および鏡の無事」を知らせて招き出したことが、「天の岩屋戸」神話として物語られたと、私は推察する。この事件に基づいて、卑弥呼の仿製鏡が「遠岐斯鏡」になったと考えるのである。

   それでは、天照大神の神魂の仿製「八連弧八葉鈕内行花文鏡」=「遠岐斯鏡」のモデルとなった「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」を所有していた人物はだれかとなれば、邪馬台国の卑弥呼しか居ない。これで、天照大神、「天の岩屋戸隠れ」譚、そして卑弥呼が繋がる事になる。古天文学の業績である247年3月24日の夕方と248年9月5日早朝の皆既日食が天照大神の「天の岩屋戸隠れ」を想起させ、また、卑弥呼の死の年とも繋がる。卑弥呼は仿製「八連弧八葉鈕内行花文鏡」=「遠岐斯鏡」を介して、天照大神と繋がるのだ。つまり、天照大神は卑弥呼を神格化した姿といえる。卑弥呼の魂代が天照大神なのである。前述しているように、この天照神話を創作したのが、邪馬台国の猿女君であったのだ。

   卑弥呼の魂代の鏡(仿製「八連弧八葉鈕内行花文鏡」)は、「瀛都鏡」として、台与から、天磐船に乗って東遷する饒速日に授けられ、河内・大和へと運ばれた。そして饒速日の御子の宇摩志麻治から崇神(=神武)天皇に献上され、崇神天皇の宮殿の大殿に神宝として祭られた。そして崇神五年と六年に起こった国難が、天照大神の神威と覚えた天皇により笠縫邑の神籬に遷され、豊鋤入姫の奉仕を受け、奉祭されることになる。その後、垂仁二十六年、倭姫につれられて諸国を遷幸したのちに旧度會県の五十鈴宮に鎮座したとは、既に述べた。

   では、なぜ、千年以上の長期にわたり、王家は伊勢神宮に参拝してこなかったのであろうか? 私の説では、応神天皇以降の歴代天皇は、邪馬台国後裔の皇統であり、卑弥呼の魂代である天照大神を奉安する伊勢神宮を参拝しても当然であると思われるのだが、してこなかった。これは、遠祖が248年の皆既日食の朝、卑弥呼を殺害したこともあり、彼女の祟りを畏れ、参拝に消極的であったと思われる。かわりに、台与を比売大神として祭る宇佐神宮の方が王家には親しかったのだ。反対に、倭建は神宮を訪れ、また天武天皇は壬申の乱の際に朝明川のほとりから神宮を遥拝している。二人は、卑弥呼に祟られることのない狗奴国人であったからである。