十一代垂仁天皇
(10)捔力と埴輪

   垂仁七年、当麻蹶速(たぎまのくえはや)という強い力士がいて、「我が力は天下にかなうべき者なし」と豪語しているのを天皇が聞かれ、群臣に誰か相手になる者を知らないかと問われた。一人の臣が「出雲国に野見宿禰という勇士がおります。蹶速と戦わせてはどうでしょう」と進言した。即日使いを出して野見宿禰を呼び寄せて、当麻蹶速と捔力(相撲)を取らせた。結果は野見宿禰が当麻蹶速の腰骨や脇骨を蹴り折って殺して勝利した。勝利した野見宿禰は当麻蹶速の土地を賜り、以後出雲に帰らず大和国に留まって垂仁天皇に仕えた。この野見宿禰は天照大神の次男の天穂日の子孫であり、出雲梟帥(飯入根)の子の鵜濡渟 (うかつくぬ) の子であるのだ。強いはずである。このはるかな裔孫に菅原道真が生まれる。

   垂仁三十二年、日葉酢皇后が身罷った。倭彦の殉死の悲惨さを知った天皇は、葬を如何に行うかを群臣に問うた。その時、野見宿禰は、殉死に替えて埴土で作った人形の埴輪を御陵の周りに立てることを進言した。野見宿禰は出雲国から100人の土師部を呼び寄せて人形の埴輪を作り、日葉酢媛の御陵の周囲に立てた。垂仁天皇は喜んで、褒賞として野見宿禰に土師部を統帥する土師臣の姓を与え、以後天皇家の葬儀一切を取り仕切らせた。
   これで、邪馬台国末裔の土師氏および物部氏が皇族の葬儀を執り行うことになった。三角縁神獣鏡の製造も埋納も盛行するのである。

   ここで、奈良県の柳本古墳群にある黒塚古墳について考えてみよう。黒塚古墳は仿製内行花文鏡を持たないが、1面の画文帯神獣鏡を棺内に、33面もの多数の三角縁神獣鏡を棺外に埋納していた。黒塚古墳8号鏡「三角縁神人竜虎画像鏡」は、崇神天皇の陪冢とされる天神山古墳の「西王母東王公竜虎画像鏡」(奈良国立博物館、727ー11)をモデルしたことはデザイン的に明らかである。また、漢字の銘帯をもつ三角縁神獣鏡が多い。このことから、この陵墓は316年以後の崇神朝末期から垂仁朝初期に築造されたと判断される。洛陽から亡命した鏡師が大和国の鏡作(磯城郡田原本町)で盛んに三角縁神獣鏡を鋳造した時代である。また、多数の鉄鏃や鉄刀などの鉄製武器を副葬していたことから被葬者は武人と判断され、王権の高位の臣というよりは、皇族の誰かが被葬者と考えられる。被葬者は崇神天皇に親しい将軍の大彦とみなすこともできるが、大彦がここまで長寿であったかどうかはわからない。あるいは、大彦の御子の武渟川別(たけぬなかわけ)ともできよう。先述したように、武渟川別は崇神六十年、天皇の命により吉備津彦と共に出雲に派遣され、出雲振根を誅している。死亡したのは垂仁朝時代と考えられるので、時代的には、武渟川別の方が合う。武渟川別は、垂仁朝では彦国葺(和珥臣の祖)、大鹿島(中臣連の祖)、十千根(物部連の祖)および武日(大伴連の祖)と並ぶ大夫の一人である。当然、陵墓は中央に築かれ、明器の三角縁神獣鏡の献納も多数にのぼったのである。