十二代景行天皇
(1)熊襲討伐

   景行天皇は身体の丈が一丈二寸(短尺で約2m)の大男である。楚の大男、伍子胥(身長一丈、約2m)に比肩する。中国語辞典に「一丈二尺の和尚」があり、意味は「一般の人は手で頭に触れることができない」が転じて、「さっぱり見当がつかない」となるそうである。まさか、記紀が編集された時代にこの諺が唐から伝わっていた訳でもないとは思うが、景行天皇はさっぱり見当がつかない天皇である。参考までに記すが、『紀』の解説は、景行天皇の和風諡号(しごう)「オホタラシヒコオシロワケ(大足彦忍代別天皇)」であり、「タラシ」の諡号は七世紀前半に定められたと述べる。つまり、四世紀の「タラシ」の諡号をもつ天皇の実在性に疑問符をつけている。また、垂仁天皇、景行天皇および成務天皇の崩御の年が重なり、景行天皇も成務天皇も架空の天皇とする意見もある。私は、景行天皇も成務天皇も実在したと、したい。

   景行天皇は、日本中の女性に手当たり次第種付け(妻問い)をして、男女合わせて80人の子を成している。精力絶倫で、同じ男性としては、憧憬の極みである。身体の大きさから想像するにさぞかし巨根であっただろう。媾あう女性も大変であっただろうと同情する。『播磨國風土記』では、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)=『紀』の稲日大郎姫(いなひのおおいらつめ)=『記』の伊那毘能大郎女は、妻問いにきた天皇を見て驚き小島に逃げた。後に連れ戻され、皇后となっている。また、美濃の弟媛も竹林に隠れ、性行為に興味が無いとの理由をつけて結婚を拒否し、姉の八坂入媛を紹介している。景行天皇を見た姫たちが性交接を拒むのも宜なるかなである。冗談はさておき、この印南別嬢は、稚武彦(吉備津彦の弟、『記』:若日子建吉備津日子)の娘であり、狗奴国の血統継続には申し分ない。そして、小碓(後の倭建)と大碓の双子をもうけている。また、弟媛のかわりに召された姉の八坂入媛は、崇神天皇の孫であり、七男六女をもうける。第一子の稚足彦が成務天皇になる。第二子が五百城入彦(いほきいりびこ)である。

   『記紀』ともに景行天皇の頻繁な妻問いを記す。あろうことか、景行天皇は御子の倭建の曽孫の娘の訶具漏比売(かぐろひめ)にまで手を出し、男子を生ませている(『記』)。ここまでくると、景行天皇の実在性に疑問符が付いてもしかたないであろう。史実的に考えて、崇神天皇および垂仁天皇の時代、たくさん皇族ができた。そのなかには、「皇別」や「国造」あるいは「君」となって地方に下向した皇族もいた。反面、下向せずに都にとどまった皇族もいた。都にとどまった皇族(例えば、五十瓊敷入彦や五百城入彦)は物部氏や斎部氏の大臣などとともに政務を遂行したであろう。多くの皇族の妻問いを、「景行天皇」とういう天皇一人の業績としたと考えたい。また、景行天皇の子供達の70数人は地方に分家させている。史実的に考察すれば、垂仁天皇の時代末になり、大和王権の権勢が地方に認知され、地方豪族の多くが大和王権に臣従したことを物語ると考えられる。皇族が地方豪族の姫に妻問いするのは政略結婚でもあるのだ。

   景行十二年七月、九州の熊襲が背き、景行天皇は熊襲討伐の軍行にでて、都を7年間空けることになる。皇軍が、周芳の娑麼(防府市佐波)に至った時、豊前国宇佐から、船に乗り三種の神器を掲げて帰順した女魁帥(ひとごのかみ、首長)の夏磯媛の出迎えを受ける。そこで媛から鼻垂、耳垂、麻剥および土折、猪折らの逆賊を討つ様に請願される。武諸木(多臣の祖)、菟名手(国前臣の祖)、物部夏花が宇佐に派遣され、策略を立てて、これらを誅する。その後、皇軍は長狭県(福岡県行橋市長尾)に至り仮宮を建てる。これが京都郡の由緒とされる。以上のことを考え合わせると、夏磯媛の領地は遠賀川上流域から行橋市と京都郡を含む豊前の地域といえる。つまり、旧「台与の邪馬台国」と私が推察する地域となる。夏磯媛は宇佐津彦の後裔であろうか? 妹の宇佐津媛は、神武東征の際、天種子(中臣氏の祖)に娶とられていた。中臣氏は朝廷の重臣である。その関連で景行天皇は夏磯媛を援助したのであろうか?

   その後、碩田国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至る。ここでも女首長の速津媛の出迎えを受ける。媛の請願により逆賊の五人の土蜘蛛(青、白、打猿、八田、国摩侶)を激戦のうえ誅する。どうも、景行天皇は女性に甘いようで、彼女等の請願をホイホイと引き受けている様に見える。

   それはさておき、福岡県京都郡から大分市にかけて居住していた「皇命に従わじ」とする豪族であるが、逆賊とされるが故に名前も住居も貶められている。これらの地域には、大和王権が臣従した地方豪族に下賜した鏡である仿製内行花文鏡を埋納していない古墳がある。仿製内行花文鏡と三角縁神獣鏡の関係は、拙書『三角縁神獣鏡が映す大和王権』(梓書院)で論考した。福岡県京都郡苅田町石塚山古墳、大分県宇佐市川部・高森古墳群(赤塚古墳、免ヶ原古墳など)、大分県大分市亀甲山古墳がそれで、三角縁神獣鏡を埋納するが、大和王権の仿製内行花文鏡は埋納していない。大和王権の鏡である仿製内行花文鏡を持たないことは、被葬者は、大和王権に臣従しなかった、それよりも、強いアンチ大和王権である豪族であったとしても不合理ではない。私は、これらの古墳の被葬者こそ、景行天皇紀で逆賊に貶められた邪馬台国系の豪族であると考える。熊襲の一族と考えるべきではない。反対に、福岡県福岡市老司古墳は三角縁神獣鏡片と仿製内行花文鏡2面それに倭鏡3面を埋納している(『古代九州の遺宝』)。この古墳の被葬者は大和王権に臣従した豪族とみてよい。

   景行十二年十一月、日向国に到って、高屋宮を建てて住む(所在地は不明、宮崎県南部か?)。そこで群卿と熊襲討伐の合議をし、策略を立てて、首領の熊襲梟帥を討つこととする。ここから、「叛いて朝貢しない熊襲」の討伐が始まるのである。熊襲梟帥には市乾鹿文(いちふかや)と弟市鹿文(おといちかや)の二人の娘がいた。天皇は姉妹を欺いて幕下に召す。その時、召された市乾鹿文と天皇は、父の熊襲梟帥を討つ策略を会話している。

   『先代旧事本紀・国造本紀』には「大隈国造:纏向の日代の帝(景行天皇)の御世に平らげ治めた隼人と同祖の初小。仁徳天皇の御世には伏布を曰佐として国造に定められた」、「薩摩国造:
纏向の日代の帝の御世に薩摩隼人等を討ち、仁徳天皇の御世に曰佐を改め直とする」とある。つまり、熊襲は後に隼人と呼ばれ、景行朝で、大隅・薩摩の隼人が平定されたことがわかる。そして、隼人との会話には曰佐(をさ)、つまり通訳が必要だったこともわかる。景行天皇は、市乾鹿文と弟市鹿文の姉妹とは通訳を通して会話したのか、それとも直で会話したのか? 前者であれば、その通訳は熊襲(隼人)と結婚した海幸彦(諸々の隼人の祖)の裔であったとみられる。後者であれば、熊襲梟帥とその娘姉妹が海幸彦の裔となる。山幸彦を祖とする神武天皇が興した大和王権に、海幸彦の族裔となる熊襲(隼人)が従わないのは、遠祖の因縁故であろうか。『紀』の内容から、景行天皇が平定したのは「襲=贈於」国の熊襲(隼人)、つまり大隅隼人と解釈できる。後に、姉の市乾鹿文は、父の熊襲梟帥を裏切った親不孝者として誅されるが、美人の弟市鹿文は火国造に賜っている。ここにでる火国造は神武天皇の御子の神八井耳の裔とされ(『記』)、崇神朝の時に任命された事になっている(『先代旧事本紀・国造本紀』)。景行天皇は、山幸彦の裔と海幸彦の裔を結婚させという事になる。しかし、この後も大隅の隼人族は大和王権に対して乱を興し続けるのである。

   また、高屋宮のある地域に居た御刀媛を娶って豊国別皇子をもうけ、日向国造に任じている。とにかく、景行天皇はどこまでも、美女に大甘である。
   進んで、熊県(熊本県球磨郡)に至り、熊津彦兄弟のうち、従わない弟熊を討つ。これで、熊・襲(球磨・贈於)二地域の熊襲(隼人)が平定された事になる。その後、そこから有明海沿岸地域を巡幸するが、その地理はかなり混乱している。そして、7年後の景行十九年に大和の日代の宮に戻っている。

   先に述べたように景行天皇は八坂入媛には、13人の児を生ませている。女性の生理を勘案すると、前児出産後の排卵日に合わせて性交すれば、毎年児を成すことはできる。しかし、普通は、受胎には数ヶ月を要しても不思議ではない。従って、八坂入媛に13人の児を生ませるには20年ほどの年月を数えることになる。とてもではないが、熊襲討伐に7年間も都を空けることは合理的とは言えない。時間軸を相当に大きく伸ばしているといえる。熊襲討伐後の地名説話は後付であろう。