十四代仲哀天皇
(3)武内宿禰と神功皇后の野望

   武内宿禰はもう一つの謀略を持っていた。それが「仲哀天皇の暗殺」である。大和の国内で天皇の暗殺を実行すれば、群臣の知る所となり、「王殺し」の汚名を着せられる。国外であれば、人知れず暗殺を行う事ができる。しかし、仲哀天皇は新羅に興味を抱かなかった。そこで、武内宿禰は、自身の故郷である紀伊国の名草郡に天皇を行幸させる。地理に明るい名草郡で、武内宿禰は密かに天皇を暗殺することを企んだのだ。しかし、熊襲叛乱の報を得た天皇は喜び勇んで筑紫に向かったのである。名草郡での天皇暗殺も未遂に終わった。

   ここで、気長足姫(神功皇后)について考えてみよう。父方は開化天皇五代の孫である息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)、母方は天日槍六代の孫の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)である(『記紀』)。それ故、新羅遠征を遂行した神功皇后は天之日矛の裔孫となっている。神功皇后の母の葛城高顙媛の出身地はわからないが、葛城を名に持つことから、大和国の葛城邑出身ともとれる。葛城郡は二上山から葛城山にいたるたる金剛山地の東側山麓に位置する。奈良盆地の西側になる。葛城については、『紀』が記している。神武東征の時、高尾張邑に赤銅の八十梟帥がいて、神武に抵抗した。その体躯は侏儒の如くとなっている。葛の網で捕獲されて殺され、それゆえに高尾張邑が葛城邑と呼ばれるようになった。先住の民であったのであろう。強く抵抗したためか、容姿を貶められている。この高尾張邑に入り、八十梟帥をひきいて神武に抵抗したのが、饒速日の御子、天香語山なのだ。紀伊国の熊野邑(いやむら)から、転身していたのだ。天香語山とその子孫は高尾張邑の姫と通婚し、尾張氏を興している。その尾張氏は現在の愛知県に移住し、後世、乎止与と美夜受媛親子が産まれている。葛城高顙媛の「高顙」は「高尾張」と同じく「高」をもつことから、「高顙」も「高顙邑」のことであるといえよう。葛城高顙媛は「葛城の高顙邑の姫」と解する事が出来る。葛城の尾張氏と但馬の「遅れてきた邪馬台国人」である天之日矛の裔孫が、但波の海部氏を介して繋がりを持ち、葛城邑に葛城高顙媛が生まれたと考えたい。当然、天香語山の後裔になるのは勿論のこと、天之日矛を介して忍穂耳の後裔ともなり、邪馬台国の台与および卑弥呼(天照大神)が祖となることになる。

   父である息長宿禰に事績はなにもない。気長足姫の父親としてのみ登場する。その系譜では、迦邇米雷 (かにめいかづち) と丹波の遠津臣の娘、高材比売 (たかきひめ) を両親とし、山代之大筒木真若を祖父とする。祖母は丹波能阿治佐波美比売である。迦邇米雷は息長氏が奉斎する朱智神社(しゅちじんじゃ、山城国綴喜郡筒城郷)(図8)の祖神であり、垂仁天皇の時代にこの地を治めていた。

京都府京田辺市の朱智神社
図8. 京都府京田辺市の朱智神社
迦邇米雷の妻と義母が丹波出身の姫であることから、丹波道主との関係が考えられ、丹波道主の母である息長水依比売へと遡ることができる。その息長水依比売は淡海を支配した天之御影の娘であり、天津彦根(天津日子根)の孫になる。天津彦根は天照大神の三男であり、淡海に東遷してきていた。この長ったらしい系図は、『記紀』が、崇神天皇の前に九代の天皇を設定した事に起因する事は明らかである。要約すれば、邪馬台国後裔の権力者(天津彦根=天津日子根と天之御影)が三世紀中頃に淡海地方に東遷して開発した。ここで興った豪族の一氏族である山代之大筒木真若とその子の迦邇米雷が、垂仁天皇の時代に山城国綴喜郡筒城郷に移住した。こちらの方が、大和の都に近く、王権の動静を把握しやすかったからである。山代之大筒木真若と迦邇米雷は、二代に渡り、丹波出身の妻をとおして息長水依比売と繋がり、迦邇米雷の子の息長宿禰の代になって息長氏=気長氏を名乗ったのだ。息長宿禰は母系で「原息長氏」を継承したともいえる。私は、以上の様に気長足皇后の出身の息長氏を考える。このようにして、気長足皇后系の息長氏は、琵琶湖南部から若狭湾にいたる近江一帯に地縁を持ったのだ。ちなみに朱智神社の配神は天照国照彦火明命(=饒速日)である。気長足皇后系の息長氏には邪馬台国の影が濃厚であることがわかる。いずれにしても、葛城高顙媛を葛城邑に見つけ出してきたのが、饒速日の御子天香語山の後裔の武内宿禰であったのだろう。葛城高顙媛と息長宿禰の間に産まれた気長足姫は、卑弥呼と台与まで、系譜を遡ることができるのである。

   気長足姫の出自をみれば「仲哀天皇の暗殺」の理由は自明となるであろう。仲哀天皇にかわる天皇はすでに気長足皇后に身籠られていたのだ。では父親は誰か? ずばり、私は武内宿禰と判断する。二人は仲哀天皇に新羅を討てば金銀財宝が手に入るといって新羅遠征を勧めた。勿論、神功皇后の神憑かりは芝居である。巫女的性格の女性は神憑かりになりやすいという事は、非科学的である。古も現在も、神憑かりはまったくの芝居である。二人の意に反して仲哀天皇は熊襲征伐に固執し、父の倭建同様に神をないがしろにし過ぎた。血筋であろう。二人の計略は狂った。それに神功皇后は懐妊してしまった。そのため、橿日宮で「仲哀天皇の暗殺」に及ばざるをえなくなったのだ。神功皇后が出産してしまえば、天皇は我が子でないことをわかってしまうからである。二人は仲哀天皇の死亡を隠した。すでに、新羅遠征の態勢が整っていたからである。

   他方、『記』では、仲哀天皇の死は神罰となっている。橿日宮での夜、仲哀天皇、神功皇后および武内宿禰の三人の中での急死である。武内宿禰の配下の仕業であろう。天皇の急死は、宮内に混乱をもたらした。筑紫の国あげての大祓の儀礼が行われた。その斎場で武内宿禰は機転を利かせ、皇后に憑依した神の神託を求め、「すべてこの國は、皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である」との答えを引き出す。
そこで武内宿禰はさらに、「皇后のお腹においでになる御子は何の御子でございますか」と問うたところ、神は「男の御子だ」と答えた。そこで更に「今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか」問うたところ、「こは天照大神の御心なり。また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神なり。今新羅の国を求めむと思えば、天神地祇、また山の神と河海の諸の神に悉に幣帛を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、真木の灰を瓠に入れ、また箸と葉盤を多く作って、皆皆大海に散らし浮けて度るべし」言った。

   このように『記』では武内宿禰の機転で、仲哀天皇の斎事が、天照大神と住吉三神による、皇位継承の承認と、新羅遠征の推進の場になってしまったのだ。「仲哀天皇の暗殺」は「神の御心による死」にすりかわってしまったといえる。神託を述べたのは勿論、気長足皇后である。武内宿禰と気長足皇后の芝居であったのだ。

   仲哀九年秋九月、諸国から船と兵士が集まった。神功皇后は男装をして、大将の印である斧と鉞を持って、大軍に命じた。
「金鼓の音が整わず、天子の旗や軍旗が乱れる時には、兵卒の士気も整わない。敵の財宝をむさぼって、自分のものにしようと考えたり、家族の事を心にひきずったりすると、敵に捕まってしまう。敵が少なくても侮ってはならない。敵が強くても屈してはならない。女人に手を付けようとする者を許してはならない。また、降伏する者を殺してはならない。戦いに勝てば必ず褒賞を取らせる。逃げだす者は罪となる」。日本の軍隊は古より軍規を厳しくしていたのだ。

   冬十月、軍船団は対馬の和珥津を出発した。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけた。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗り、舵や櫂を使わずに新羅に着いた。その時、船が国の中に到達するほどの大波が起った。その様を見た新羅の王は戦々恐々として、為す術もなく、諸人を集めて「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか」と言い終わらないうちに、軍船が海に満ちて、旗が日に輝いた。鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡り、新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐れおののいた。そして「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言う。その国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう」と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏した。これによって皇后は新羅を馬飼いの国と定めた(図9)。

八幡大菩薩御縁起絵巻
図9. 八幡大菩薩御縁起絵巻
サンフランシスコアジア博物館蔵
さらに皇后は矛を新羅の国王の家の門に突きたてて、後世に残る印とした(あるいは住吉三神の荒魂を祭ったともする)。あわせて、百済と高句麗の王も降伏した。百済は海外の屯家となり、百済、新羅、高句麗は朝貢する事を誓約した。そして皇后は海を渡って筑紫に帰還した。

   このように神祐を得て、皇后は半島の三国を降伏させたのである。これ以前、皇后は、渟田門(季節外れの浮鯛現象)、長門の豊浦そして洞海湾など日本の海で海況の異変に遭遇している。仲哀天皇も洞海湾でやはり海況異常に遭遇している。そして、新羅でも異常海況に助けられ、戦わずして新羅王を降伏させたのである。新羅で起こった大波こそ津波であったのだ。新羅遠征の前に起こった数々の異常海況は日本海側のどこかで起こる地震の前兆と判断できる。そして起こった地震による大津波が偶然皇后の軍船を新羅の陸奥まで運んだと理解できる。地震が稀にしか起こらない半島では、津波の経験が全くなかったので、新羅王は恐れおののいたのだ。『紀』は神祐を願う数々の禁厭を記すが、異常海況は天佑でも神祐でもない。自然現象だったのである。『古事記』(次田真幸訳)の解説では、直木孝次郎の解釈を取り上げ、「神功皇后の新羅侵寇を後世の宮廷人の構想であり、史実ではない」と説く。しかしながら、一連の海況異常をなんの伝承も無く八世紀の奈良にいる宮廷人が創作できたであろうか。絶対に出来ない。史料に残らなかっただけで、このとき日本海側で地震があり、新羅の地に地震津波が起こったことは事実であろう。従って、神功皇后の新羅侵寇は史実であると私は判断する。海況異常を神功皇后の強い霊力を示す説話として挿入したと考えるのは、文系学者の悪癖である。また、戦後の自虐史観に毒された学者達には、新羅討伐あるいは三韓討伐はよほど都合が悪い話なのか、神功皇后を架空の人物に仕上げたいようである。『広開土王碑文』の史実を無視してまでも。

   倭国軍の新羅侵寇を『三国史記』新羅本記では393年、『三国遺事』では390年、高句麗の『広開土王碑』に従えば391年になる。『広開土王碑』は記す「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」(そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となした)。百残は百済の事である。いずれも、390年頃としている。私は成務天皇の崩御年を380年頃と推定した。その後の仲哀天皇の治世9年を加えると389年となる。一、二年の差が生じるが、神功皇后の新羅侵寇は390年頃に本当にあった事蹟としたい。