十四代仲哀天皇
(4)邪馬台国王統の成立

   身籠っていた気長足皇后は筑紫にかえって、誉田天皇を産む。いわゆる胎中天皇(後の応神天皇)である。この時、仲哀天皇の御子とするため、仲哀天皇の崩御時と誉田別皇子の出生時の時間差を「鎮懐石」(腰に石を挿んで出産を遅らせる)で取り繕う。誉田別皇子の出産は、もっと早かったのだ。筑紫に凱旋後の出産にするために、「鎮懐石」の挿話を作ったのであろう。夫の児か愛人の児か、懐妊の時期は女性だけがわかることである。誉田別皇子は、皇后と武内宿禰の児であるのだ。これから誉田別皇子を皇位に即けるための戦いが始まる。翌年、皇后は筑紫から長門の豊浦宮に移り、仲哀天皇の喪(遺骸)を喪船に収めて、海路、大和に向かった。仲哀天皇と妃の大中姫の間にできた香坂王と忍熊王は、皇位を奪われるのを怖れ、策略を巡らし播磨の赤石に仲哀天皇の陵を作る名目で兵を配置して待ち伏せ、皇后、誉田別皇子および武内宿禰の一行を討たんとした。二人は祈狩り(うけひがり)をするが、兄の香坂王は現れた赤猪に食殺される。これを凶兆と判断した忍熊王は兵を摂津まで引く。忍熊王軍の待ち伏せを察知した皇后は武内宿禰と作戦を立てる。結果として忍熊王軍は武内宿禰率いる皇后軍と激闘の末、淡海まで追いつめられ、忍熊王は琵琶湖に入水自殺する。『紀』は皇后軍と忍熊王軍の激闘を潤色たっぷりに記す。

   摂政元年、神功皇后は皇太后になる。この年の干支は辛巳である。
   摂政三年、誉田別皇子を皇太子とし、橿原に若桜宮を建てて政治をおこなう。この年、誉田別皇子は三歳である。
   ここで、『紀』の年記と西暦とを検討してみよう。神功皇后摂政元年の辛巳年は381年か441年である。仮に381年を採用すると、『広開土王碑』の記す新羅侵寇391年より10年前になる。ところが、応神元年の庚寅年は390年であり、『広開土王碑』の記す新羅侵寇391年とほぼ一致する。『記』では応神は胎中天皇となっている事から、神功皇后の妊娠中から天皇であったと理解すれば、応神元年の庚寅年が390年であってもよいことになる。勿論、実質の天皇としての即位は後年のこととなるのは当然である。従って、応神天皇の摂政としての神功皇后摂政元年は庚寅年390年とすべきであろう。これで、西暦のうえでは、『広開土王碑』の記す年号と神功皇后摂政元年とが正合する。誉田別が皇位に即いた後も、神功皇太后が摂政を行っていても不都合ではない。

   誉田別が立太子することで、邪馬台国系統の天皇を立てるという神功皇后と武内宿禰の遠大な計画が実現したのである。応神天皇の代で、皇統が狗奴国後裔から邪馬台国後裔に転換したのだ。邪馬台国王統を再興したと見てもよい。邪馬台国王統の再興こそが、気長足皇后が果たした大いなる功績「神功」であったのだ。それ故、神功皇后なのである。応神天皇以降、歴代の天皇は全国に存在する邪馬台国および不弥国(物部)後裔の豪族の力を結集することで、河内の地に巨大墳墓が築造できることになったのだ。巨大墳墓を河内国に築いたことから、応神天皇以降の王朝は河内王朝とよばれることもある。河内は、神功皇后の出身地である葛城邑から背後の金剛山地を越えた西側に広大に広がっていた。一方、狗奴国出身の崇神天皇や垂仁天皇などは大和国内の豪族しか結集する事が出来ず、巨大陵墓の築造はできなかったのだ。