目次
第六章
狗奴国王統の盛衰
特別編
自女王国 東渡海千余里 至狗奴国
「邪馬台国」と敵対した「狗奴国」であるが、「狗奴国」の位置について、二つの説がある。一つはもちろん『魏志倭人伝』で、「邪馬台国」隣接の南側としている。ところが、劉宋代(420〜479年)に范曄(398〜445年)により著された『後漢書』倭伝(432年)では、「自女王国 東渡海千余里 至狗奴国 雖皆倭種 而不属女王」と記述され、「狗奴国」は「女王国」=「邪馬台国」よりはるか海を隔てた東に位置することになっている。なぜであろうか?
劉宋の時代、倭の五王が朝貢を重ねているが、范曄が聴聞したのは、421年の「讃」の遣使であったと思われる(『宋書』倭国伝)。劉宋の建国直後の朝貢である。「讃」が応神天皇か仁徳天皇か意見が分かれているが、私は応神天皇とする。「誉田別」の「誉(ほめる)」は「讃」に通じるからである。范曄は、倭王の遣使が示した「誉田別」に同義語の「讃」を当てたのだ。それ故、私は、「讃」は応神天皇とするのである。この年、応神天皇は三十歳でよいであろう。遡れば、東晋413年にも倭王が、東晋に遣使している(『晋書』安帝紀)。すると、東晋に遣使したのは、応神天皇の母親の神功皇后と見る事ができる。神功皇后は、応神王朝を打ち立てて邪馬台国王統を再興し、百年ぶりに華夏王朝に朝貢したのだが、東晋は間もなくして滅亡した。421年の倭王「讃」の劉宋への朝貢は邪馬台国王統を再興して間もない時である。「讃」の遣使は劉宋の王朝に狗奴国血統の大和王権にかわり邪馬台国血統の王権が樹立した事を報告したのであろう。応神王朝には「倭漢(やまとのあや)」と呼ばれる多くの帰化漢人がいた。彼らが、漢文でしたためた書状を作ったのであろう。その内容は、「大和王権を創ったのは狗奴国人であった。その大和国は女王国があった筑紫から、はるか海を渡った東にある」であったのだろう。それを聴聞した范曄は、得られた新知見を基に、『魏志倭人伝』を引用した倭国の記述のうち、「狗奴国」の位置を書き改めたと理解することができる。それが、「自女王国 東渡海千余里 至狗奴国 雖皆倭種」である。この范曄の記述は、私の「狗奴国による大和王権樹立説」を強く裏付けるものである。