神功皇后の摂政
(1)な替え珍事と御落胤

   摂政元年、神功皇后は皇太后になる。
   摂政二年、仲哀天皇を河内国の長野陵に葬る。
   摂政三年、誉田別皇子を皇太子とし、摂政を始める。この年、誉田別皇子は三歳である。誉田別皇子は誉田天皇(胎中天皇)でもある。磐余に若桜宮をつくって、政治をおこなう。
   摂政十三年、誉田別太子に武内宿禰をつけて、敦賀の笥飯(けひ=気比)大神を参拝させる。誉田別太子が帰還後、神功皇后は大殿で酒宴を開く。

   『記』ではこの行幸を「な替え珍事」として記す。『古事記』(次田真幸訳)の解説では、三品彰英の意見をとりいれ「典型的な成人式儀礼」と説く。はたして、そうであろうか。これ以後の天皇は特定の神と「名易え神事」を全く行っていない。「典型的な成人式儀礼」ならば、歴代天皇も行うはずである。では、「名易え神事」とはいかなるものか、『記』から略記する。

   建内宿禰が若き品陀和気(=誉田別、応神天皇)をつれて淡海から若狭国を巡歴したときのこと、敦賀の仮宮に居た時、伊奢沙和気大神(=気比大神)が建内宿禰の夜の夢に現れて、「私の名を御子の御名と易えたいと思う」と言った。建内宿禰が同意すると、その神は、「明日の朝、浜に行くがよい。名を易えることへの贈物を与えよう」と言った。朝になり浜に行ってみると、鼻に傷ついた入鹿魚が一浦に打ち上げられていた。そこで品陀和気は神に「私に御食の魚を与えて下さった」と言い、また、神をたたえて御食津(みけつ)大神と名付けた。今にいう気比大神である。

   この事件を素直に解釈すると、敦賀の伊奢沙和気大神から入鹿魚の肉を御食の「魚」としてもらったということである、おそらく朝食の菜(おかず)として。「魚」は「な」と読む(岩魚:いわな、鮒魚:ふな、真魚咋:まなぐひ〔魚料理〕がその例)。「名」は「な」であり、「魚」も「な」、「菜」も「な」である。故に「名」すなわち「魚」、「菜」となり、品陀和気は伊奢沙和気大神と「な」つまり「菜(おかず)」の交換を行ったにすぎないのではないかと判断される。伊奢沙和気大神を祀る海人が「入鹿魚」を品陀和気一行に振る舞おうとして、品陀和気の御食の「采(な)」との交換を建内宿禰に夜の間に申し入れたと解釈するのが合理的である。海人が貴人に対して振舞うのは恐れ多いとして、先に品陀和気の御食の「菜」を下賜してもらい、かわりに入鹿魚=「魚」を献上したことを物語っているのだ。「名」と「魚」、「菜」の同音異義語が引き起こした「な替え珍事」と判断される。品陀和気は伊奢沙和気大神と「名前」の交換をしたのではないのだ。この譚は、「同音異義語」を使った稗田阿禮の「親父ギャグ」といえよう。稗田阿禮は、今頃常世で指パッチンして言っているであろう「わかるかな? わかんないだろうなあ〜」。冗談はさておき、太安万侶が稗田阿禮の口承を漢文に置き換える時、「魚」を「名」と誤記したことに起因する誤解釈と言えよう。また、応神記では敦賀の蟹の歌を載せている。奈良の都に住まう宮廷人にとって敦賀の気比の海人が献上する海産物はすこぶる美味であったのであろう。

   それでは、なぜ『記』が「親父ギャグ」のような説話をわざわざ載せるのか? 先述した様に「名易え神事」でもなければ「典型的な成人式儀礼」でもない。私は、『記』の説話には何らかの史実が隠されていることを、これまでも実証してきた。では史実とは何か?

   当時、誉田別が行幸した淡海から敦賀の地は母である神功皇后の父方の息長氏の支配地域となっていて、誉田別が行幸するには十分に安全であったのだ。そうでなければ、神功皇后が一人息子の誉田別を行幸させる訳が無い。行幸は「禊」のため、つまり、敦賀に仮宮を建てて滞在中に、地元の息長氏の媛と婚あったのである。武内宿禰は誉田別を神功皇后の父方の地へ連れて行き、そこで女性体験をさせたのだ。もちろん、母の神功皇后公認である。その相手の姫を息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、『記』では、倭建の曾孫となっているが、系図は不明瞭である)としたい。それ故、誉田別と武内宿禰が帰京した時、神功皇后は「待酒」で祝宴を催したのだ。息子の「チェリーボーイ卒業」を祝うためである。この意味からすれば、「成人儀礼」を済ませたことを祝ったともいえる。そしてこの時「御落胤」、若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)が残され、息長氏により大切に育てられた。応神天皇の時代、半島から多くの漢人が帰化し、その一人の王仁は書首となる。宮廷ではこの「御落胤」の秘話も記録に残されたのであろう。それから月日が流れ、「御落胤」の裔孫が応神五世の孫として、男大迹王(をほどのおおきみ、後の継体天皇)が、息長氏の領地に生まれることになる。この事の詳細は後述する。