十五代応神天皇
(3)外交、王仁の帰化

   応神三年、百済では辰斯王が(倭国の)天皇に対し無礼があり、問責のため紀角宿禰らが派遣されたところ、百済の国臣が辰斯王を殺したため、阿花(阿莘王)が王に立てられた。

   応神七年、高麗人、百済人、任那人、新羅人が来朝した。武内宿禰に命じて韓人(からひと)に池を造らせた。それを韓人池という。

   応神十四年、百済王が服飾の工女を献上した。同年、弓月君(ゆつきのきみ、秦氏の祖)が来朝して、「百済から百二十県の人夫を連れてきたが、新羅の妨害にあって加羅国から倭国に渡ることが出来ない」と訴える。弓月の人夫を連れて来るために、葛城襲津彦を加羅に派遣したが戻ってこない。

   応神十五年、百済王は、阿直伎(あちき)を使者として良馬二匹を献上した。また、阿直伎は学問に優れており、皇太子の菟道稚郎子の教師となる。天皇から、「もっと優秀な博士がいないか」と尋ねられた阿直伎は、王仁(わに)を推薦する。

   応神十六年、百済から王仁が来朝した。皇太子の菟道稚郎子の教師とした。百済の阿花王が亡くなったので、天皇は人質の百済王子、直支(とき)を呼び「国へ帰って王位につけ」と言い、東韓の地を与えた。天皇は、「襲津彦が帰ってこないのは、新羅が妨害しているからである」として、新たに平群木菟宿禰(武内宿禰の子、大鷦鷯=仁徳天皇と同じ誕生日)と的戸田宿禰の将軍が率いる軍を加羅に派遣した。将軍は新羅との国境まで進軍して新羅を牽制し、弓月の百二十県の人夫を引連れて襲津彦と共に戻った。この時、一万人を越えるに人数が帰化したと言う説もある(Web)。

   応神二十年、百済から、阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)親子が郎党十七県を連れて帰化した。阿知使主は倭漢直の祖になる。

   以上、応神天皇の対百済外交をまとめた。応神三年条にでてくる百済の辰斯王は、『三国史記』と『晋書』孝武帝本紀では在位が385〜392年になっており、死亡は392年となる。本来ならば、神功皇后摂政三年(=胎中天皇三年)に記すべき内容であろう。その百済とは友好的な関係を保っている。応神天皇は皇太子の菟道稚郎子の教育には熱心であり、阿直伎と王仁から漢文を習わせている。この時点では、応神天皇は、菟道稚郎子を次期天皇と決めていたようである。菟道稚郎子が天皇に即位しなかった事は先述した。百済は劉宋王朝と交流しており、また、新羅人のために通訳をして新羅の劉宋王朝への朝貢を助けていたようである。それは『梁書』新羅伝「言語待百濟而後通焉」(言葉は百済の通訳を待ち、然る後に通じるなり)からもわかる。百済人の阿直伎は漢語が出来たのであろう。他方、王仁は帯方郡の旧地にいた漢人であろう。楽浪郡や帯方郡には漢代に政変で追われた漢人が逃れて住んでいた。313年に高句麗の攻撃を受けて滅び、漢人達は百済に移り住んでいたのだ。それ故、王仁は『論語』十巻と『千字文』一巻をもってきて、献上しているのだ(『記』)。私は、戦後の高校の歴史では、これをもって「漢字伝来」と習った。そして漢字を日本人教えたのは朝鮮人であるとも習った。今から思えば、全くの「嘘」である。また、『千字文』は後世のものとして、王仁の帰化そのものを否定する意見があるが、私は、史実と考える。王仁がもたらした書物の詳細が伝わらず、『記』をまとめる時に存在した『千字文』を、それに当てたのであろう。王仁は帰化して河内に住み、書首となり、西漢(かわちのあや)氏呼ばれた。

   同じく、阿知使主とその郎党も帯方郡旧地にいた漢人である。帰化後大和国の飛鳥地方に拠点を構え、政権に深く関わっていく。「倭の五王」の外交文章作成にも関わったとされる。東漢(やまとのあや)氏と称した。東漢氏は政権に深く関わり過ぎたようで、後世、大海人が壬申の乱を興して天武天皇に即位した時、「七つの大罪」(「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり」)を問われることになる(詳細は後述する)。東漢氏の末裔に征夷大将軍坂上田村麻呂がでる。