十五代応神天皇
(4)外交、弓月の君の帰化

   さらに、弓月君が百済から百二十県の人民を連れて帰化している。弓月君が倭国に来朝する際、加羅国に迎えに行ったのは対新羅外交を統括する葛城襲津彦であったが、十四〜十六年の三年間半島で延滞した。新羅は対百済外交を妨害している事がわかる。三年間の延滞は、葛城襲津彦が新羅王の仕組んだハニートラップに懸かっていたためかもしれない。いずれにしても、弓月君が百二十県の人民を連れて帰化するということは、ほぼ一国分の人民が日本に移住したのである。『紀』にはないが、弓月君=融通王は後に秦(はた)氏の祖とみなされている(『新撰姓氏録』など)。『記』では、秦氏の祖、仁番(にほ)が渡来したとなっており、弓月君との関連は記されていない。それでは、秦氏の祖といわれる弓月君は半島のどこにいたのか? いいかえれば、秦氏とはどういった氏族なのであろうか? 『梁書』新羅伝(629年)は記す「新羅者 其先本辰韓種也 辰韓亦曰秦韓 相去萬里 傳言秦世亡人避役來適馬韓 馬韓亦割其東界居之以秦人 故名之曰秦韓」(新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓はまた秦韓ともいう。双方は遠く離れている。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、これを秦韓と名付く)。「辰韓始有六國 稍分為十二 新羅則其一也」(辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である)。つまり、馬韓の地に秦から逃亡した漢族が住み着いた。その地を「秦韓」あるいは辰韓といった。辰韓は初め六国だったが十二に細分した。新羅はその一国である。「秦韓」と新羅は遠く離れているということになる。応神天皇の時代には漢族とは異なる民族が新羅の版図を拡大させたため、「秦韓」の漢族が百済にのがれたのであろうか。仮にそうであれば、新羅人が漢語を話せなかったことと符合する(『梁書』新羅伝「言語待百濟而後通焉」)。

   もう一つ手がかりがある。それは、倭の五王の上奏文である。『宋書』倭国伝には、438年「珍」の上奏文に「使持節都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国諸軍事安東大将軍 倭国王」とある。また、478年「武」の上奏文には「都督倭 百濟 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 七國諸軍事安東大將軍 倭國王」とある。ここに「秦韓」が一国として出てくる。新羅とは異なる国である。そして倭王はその国を統括する大将軍と自称している。「倭の五王」の時代、「秦韓」が半島に国としてあったということは自明であったと考えられる。倭王が言う「秦韓」が、弓月君の国であったのかもしれない。他にもう一つ手がかりがある。私は、応神天皇の即位年を413年と考えている。五胡十六国時代に華北を平定した前秦(チベット系の氐族)滅亡の394年および後秦(チベット系の羌族)滅亡の417年が、神功皇后・応神天皇の時代と一致している。その秦の王族が人民を率いて華北から半島に逃れ、「秦韓」を形成していたとも考えられる。特に前秦(図2)は華北を統一し、「皇帝は農耕儀礼である籍田の親耕を行ない、その后は養蚕の礼を行なった」とある。秦氏が養蚕・織絹の技術を持っていたことと符合する。また、この農耕儀礼は、現在日本の天皇・皇后の農耕儀礼にも通じる。

京都府京田辺市の朱智神社
図2. 前秦(351-394年)

   いずれにしても、その「秦韓」の国民が大挙して倭国に移住してきたのだ。そして、養蚕・織絹、酒造および土木の職人集団として帰化したと考えられる。後に秦(しん)始皇帝の末裔として秦(はた)氏を名乗ったとされる。

   さらに、『隋書』倭国伝(636年)には、608年に倭国に派遣された答礼使裴世清の記録として「又東至一支國   又至竹斯國   又東至秦王國   其人同於華夏   以為夷洲   疑不能明也   又經十餘國   達於海岸   自竹斯國以東   皆附庸於倭」と記し、倭国に秦王国があり、人民は華夏と同じとしている。そこから十余国を経て海岸に着き、(大和王権の)賑々しい歓迎を受けている。聖徳太子が送った遣隋使の返礼として倭国に派遣された裴世清を、秦氏は総出で出迎えたのであろうか。あまりの大人数であり、裴世清は一国の人民と誤解したのだ。その場所は九州島内とみられる。応神十六年、弓月君の人民は倭国へ渡ると、当初、豊前国に入り、拠点としたとされる。この時代は、博多湾あたりが百済への航海の拠点になっていたのだろう。あまりの大人数のため、豊前国に住まわせたのだろう。ここには宇佐神宮(宇佐八幡宮)があり、比売大神・神功皇后・応神天皇を祭る。比売大神と宗像三姫については既に考察した。この神社に神功皇后と応神天皇を祭ったのが秦氏といわれる。勿論、倭国への帰化を受け入れてくれた大恩人だからである。「秦氏は当初、香春岳山麓で銅を採掘していたが、宇佐の地にも秦氏の一族である辛島氏が入植し、宇佐神宮を建てた」(Web)という説がある。豊前国で秦氏一族の大歓迎を受けた裴世清は、疑いながらも、そこを夷洲(呉の孫権が探した海中の島)と見なしたのであったのだ。

   倭国に帰化した秦氏は華夏人の可能性があるが、チベット系の氐族であったのかも分からない。ともかく、倭国の文化に多大に貢献した事は間違いない。後世(推古朝、七世紀)、秦氏は氏寺の広隆寺を京都府の太秦に建てて弥勒菩薩半迦思惟像を安置した。その菩薩像が半島の旧新羅地区で出土した金銅弥勒菩薩半迦思惟像(80㎝、韓国国立中央博物館所蔵)と似ることから、秦氏が新羅系帰化人であるとする説(Web)がある。しかし、仏教信仰は後世であり、文化の先取に敏感であった秦河勝が、半島を経由して伝わった弥勒菩薩像に半迦思惟のポーズを求めたとしても不合理ではない。両者は、ポーズは同じでも、容姿も大きさも異なる。また、半島の仏像が複製可能な金銅製であるのに対して、広隆寺の仏像は木造(赤松と楠の合材)であり、材質も異なる。弥勒菩薩像を以て、秦氏が新羅系帰化人であるとは言えない。また、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦の殆どが、「新羅系瓦」(図3)であったとされる (Web)。

八幡大菩薩御縁起絵巻
図3. 新羅系 軒丸瓦
弓月君郎党が倭国に来朝する前、新羅の地に居て、新羅王室の宮殿の瓦屋根に、彼等が持つ瓦製造の技術を以て瓦を焼いたとしても不合理ではない。その瓦の文様・型がそのまま倭国で再現されたとすれば、「新羅瓦」と同様であっても不思議ではない。確立した技術は伝承される。それが技術の継承である。「技術は受け継ぐことで生き長らえる」ことを、日本の各種の職人は見事に実証しているではないか。私は、秦氏が「新羅系」帰化人とは判断しない。