十五代応神天皇
(5)晩年の外交

   応神二十八年、高句麗王が朝貢してきたが、菟道稚郎子がそれを検分し、上表文に無礼があったので破って捨てた。

   応神三十一年、伊豆国より献上された官船の「枯野」が朽ちてしまったので、職人に命じて材を切り取り、薪として塩を焼いた。収穫された五百籠の塩を諸国に賜った。その返礼として、諸国から五百隻の船が献上され、六庫水門に並べた。その時、六庫水門には朝貢に来ていた新羅船が停泊しており、その船からでた火が原因で、多くの船が焼失した。天皇は新羅の使いを責めた。

   応神三十七年、呉(=劉宋)に阿知使主と都加使主を遣って、服飾の工女を求めようとした。使いは、行く道がわからないので高句麗王に案内人を頼んだ。高麗王は二人の案内人を付けてくれたので呉に行くことが出来た。呉王は四人の工女(兄媛、弟媛、呉織、穴織)を与えた。

   応神四十一年春二月、天皇崩御。恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)が誉田御廟山古墳である。同年、阿知使主らが呉より筑紫に帰る。その時宗形大神が工女を求めたので兄媛を奉った。残りの三人の工女を摂津国の武庫に連れ帰ったが、天皇が崩御していたので大鷦鷯皇子に献上した。

   以上、応神天皇晩年の外交をまとめた。高句麗王の上表文を皇太子の菟道稚郎子が無礼として破り捨てたのは、菟道稚郎子の漢文教育の賜物であろう。ここにも、応神天皇が菟道稚郎子を次の天皇にしようとしていたことが窺える。三十一年の新羅船からの出火による多数の船の焼失は、新羅の使者のテロではないだろうか。たとえ失火としても、新羅人は付合いにくい民族である。三十七年の呉への派遣にあたり高句麗王の助力を求めている。この時代には倭国と高句麗とは良好な関係にあったといえる。神功皇后が新羅に遠征したのは、華夏の王朝との交易拠点を黄海側に置きたかったためと私は考える。高句麗と全面戦争をしたかったわけではないのだ。新羅が高句麗に助けを求めたために、高句麗との戦争に至ったと私は考える。ここに出てくる呉は劉宋であろう。『宋書』倭国伝に、425年「倭王讃、司馬曹達を遣わして方物を献ずる」とある。応神三十七年の干支は丙寅で426年となり、年は合う。司馬は馬の飼育係か騎馬の軍人であろう。案内人の曹達は漢語が堪能であったのは当然であるので、宋王朝へ道案内した高句麗の武人と思われる。『紀』の久礼波か久礼志のどちらかであろう。以上の事から、応神三十七年は425年としたい。先述したが、三十七年から四十一年の呉(劉宋)への朝貢は宗形の海人が働いたのであろう。褒美に呉の工女を求めたのである。ここから、宗形の海人は大和王権に深く関わっていくことになる(図4)。

宗像大社 辺津宮
‪図4. 宗像大社 辺津宮