十六代仁徳天皇
(1)即位

   大鷦鷯は、皇太子の菟道稚郎子と皇位継承の譲り合いを行い、応神天皇の崩御(430年)のあと三年間の空位をおいて即位する。即位の年を西暦433年としたい。『宋書』倭国伝では、元嘉15年(438年)に「珍」が朝貢して上表し、「使持節 都督倭 百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称し、正式な叙爵を求めている。しかし、宋文帝は詔を以て「安東将軍、倭国王に叙爵」している。438年は仁徳天皇の即位後であろう。『宋書』倭国伝は「珍」を「讃」の弟としている。「讃」と「珍」を兄弟としたのは、皇太子の菟道稚郎子と大鷦鷯皇子が兄弟で皇位を譲り合ったことが、宋王朝で誤って解釈されたためではないか。では、大鷦鷯天皇=仁徳天皇がなぜ「珍」とされたのか?「讃」の死後も三年間、菟道稚郎子と大鷦鷯皇子とが皇位を譲り合った。宋王朝にとって皇位継承を譲り合うという未聞の「珍事」を経て大鷦鷯が王になったということで、「珍」と表わしたと私は考える。何れにしても宋王朝では、即位したのが、大鷦鷯でも菟道稚郎子でも、どちらでもかまわなかったのであろう。大鷦鷯皇子の誕生を応神天皇二十歳くらいとみれば、433年では二十二、三歳になり、親子でも納得できる。私は、「讃」は応神天皇であり、「珍」は仁徳天皇であるとし、親子としたい。