二十一代雄略天皇
(3)伊勢神宮

   次に伊勢神宮関係の事柄に付いて考察する。

   雄略三年、阿閉臣国見(またの名を磯特牛)が、栲幡皇女と湯人の廬城部連武彦を貶めるため、「武彦は皇女をけがして妊娠させました」と讒言した。 武彦の父の枳莒喩(きこゆ)はこの流言を聞いて、禍が身に及ぶことを恐れた。武彦を廬城河(いおきのかわ)に誘い出すと、鵜飼の真似をして欺き、不意をついて討ち殺した。 天皇は使者を遣わして皇女に尋ねた。皇女は「私は知りません」と答えた。にわかに皇女は神鏡を持ち出すと、五十鈴河のほとりやってきて、人気のない所に、鏡を埋めて経死 (けいし、首つり自殺) した。天皇は皇女がいないのを疑って、闇夜をあちこち探させた。すると河のほとりに虹が見えた。蛇のようで、四、五丈の長さだった。虹のたったところを掘ると神鏡が出てきた。近くに皇女の屍があった。割いてみると、腹の中には水のようなものがあった。水の中には石があった。枳莒喩はこれによって、我子の罪を雪ぐことができた。我子を殺してしまったことを悔い、報復に国見を殺そうとしたが、国見は石上神宮に逃げて隠れた。この時代、石上神宮は治外法権であったようで、枳莒喩は国見を捕縛できなかった。

   神宮の斎王栲幡皇女は、葛城円の娘の葛城韓媛と雄略天皇との間に出来た皇女である。雄略天皇の時代、皇女が斎王として天照大神を奉祭していた内宮はまだ祠であったようだ。斎王による奉祀は倭姫から続いていたのである。斎王には処女性が求められ、栲幡斎王はその処女性を穢す讒言を受けたのだ。斎王は天照大神を持ち出して、人気のない所に埋め、経死した。この時危うく天照大神は行方不明になるところであったが、虹を発して所在を示し、見つかっている。以後、継体天皇の皇女、荳角皇女(ささげのひめみこ)まで、斎王は途絶えたようである。いずれにしても、栲幡皇女の死で葛城氏は政権との関係を失ってしまうのだ。その後、雄略二十二年、伊勢神宮外宮が建立される。それまでは豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかったが、崇敬の声が大きくなり、丹波国の元伊勢籠神社の真名井神社から遷座したのだ。この年から、伊勢神宮は内宮と外宮の二つの社をもつ事になる。