二十一代雄略天皇
(7)太秦と帰化人

   一方、古渡りの秦の人民は、秦造が統括していたが、十五年、天皇の家臣の臣連らに分散して所属させ、自由に使わせた。しかし、秦造酒はそれを憂いた。酒公を寵愛していた天皇は心配して秦の人民を集め、酒公にさずけた。酒公は、喜び、百八十種の勝部(まさべ)を率いて、庸調の絹縑 (きぬかとり) を献じて、宮庭にうずもりたかく積んだ。喜んだ天皇は、それにちなんで、酒公に禹豆麻佐(うづまさ、後の太秦)という姓をさずけた。十六年、諸国に桑を植えて、秦の民に養蚕・機織による調庸にたずさわらせた。同年、漢部を集め、伴造(とものみやつこ)を定めて、直(あたい)の姓を賜った。

   このようにして、古渡りの帰化人の秦や漢部の部民の身分きちんと定めて、厚遇したのだ。秦の民は養蚕と絹織物にも長けていたようだが、秦の民が持ち込んだ蚕を使って絹縑を織ったのか、倭国古来の蚕(蚕は卑弥呼の時代から日本にいた)が良質の生糸をつくったから絹縑が織れたのか、どちらであろう。

   先学が著した色々な書物では、帰化人は百済人や新羅人とする。しかし、『記紀』を丁寧に読み解けば、阿直伎のような百済系の帰化人もいるが、有力帰化人の東漢氏は楽浪郡や帯方郡の旧地に居たか、そこから百済に移住した漢族であることがわかる。また、秦氏は秦の始皇帝の末裔とするには無理があるが、「秦韓」に住む漢族か氐族である可能性が高い。つまり、もとは辰韓の中の一国であった新羅が版図を拡大させた結果、「秦韓」が圧迫を受け、百済に追いやられ、その百二十県の住民が大挙して倭国に帰化したと理解できる。さらに、華南の呉地から渡来した漢人の服飾工女は、気候がよく似た我が国の着物のデザイン向上に貢献したのであろう。

   このように、古代日本政府は、漢族や百済および高句麗の知識人や技術者の帰化を受け入れているが、新羅に対しては異なった。670年に統一新羅が興るが、統一新羅は、当初、日本に人質や朝貢を送り、国号を日本の許可が無く変える事は出来ない属国であった。782年になると新羅は唐の冊封に入り、唐の属国になると、新羅王は、日本を「小国」と見下す様になる。そのような新羅に八世紀中頃から飢饉が起こると大量の難民が日本に押し寄せるが、政府は東国開発の農民として帰化を許す。その後も食い詰め新羅人が五島列島に襲撃を繰り返すが島人により撃退される。814年には対馬に役所を設け、漂流者、帰化人の縁者のなりすまし難民や襲来する新羅賊に対して対策を講じることになる。845年には藤原衛の発案で新羅人の帰化を禁止し、越境して帰化を求める新羅難民には、衣食を与え追い返すこととした(『貞観格』)。その間の820年には、東国開発に送られた新羅農民が駿河と伊豆で反乱を起こす(弘仁新羅の乱)。以上の様に、新羅人は古代日本の文化に貢献する事は無く、むしろ歴代政府と日本国民を煩わせる事の方が多かったのである。新羅の独自文化と言える物は無く、670年までに滅ぼした百済や高句麗の文物を剽窃して、自らの物としたに過ぎないのだ。