二十六代継体天皇
(1)即位と邪馬台国王統の継続

   履中天皇の第一皇子市辺押磐(いちのへのおしは)の二人の皇子が二十三代顕宗天皇と二十四代仁賢天皇となる。そして二十五代武烈天皇へと邪馬台国の王統はひき嗣がれて行く。ところが、武烈天皇は若死にし、かつ後嗣を定めていなかったため皇位継承が絶えてしまう恐れがでた。その時の重臣、大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)そして巨勢男人(こせのおひと)らは宮中の記録を検証し、「皇孫を調べ、選んでみると、賢者は確かに男大迹王だけ」ということで、近江で豪族になっていた男大迹王(をほどのおおきみ)が見いだされた。そして、男大迹王が継体天皇として皇位についた。男大迹王は、応神天皇が十三歳の時、武内宿禰に連れられて敦賀に巡幸した時に、息長氏の媛のもとに残された御落胤の若沼毛二俣王の四代孫であったのだ。息長氏は葛城氏とは異なり、中央に進出するのではなく、地方豪族として琵琶湖水運と敦賀を拠点とする日本海交易を支配して栄える道を選んでいたのだ。そのお陰で、雄略天皇の粛正の嵐にも巻き込まれることなく、応神天皇の「御落胤」は世代を重ね、血統を維持してきた。勿論、継承者の詳細な系図は中央には伝わっていないことになる。それ故、継体天皇の皇位継承の正当性が、後々まで疑われる事にもなる。男大迹王は、近江国高嶋郷三尾野(滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、のちに越前地方(近江地方説もある)の権力者となっていた。そこを、大連の大伴金村や物部麁鹿火、および大臣の巨勢男人などの重臣にみいだされたのである。

   大伴金村の主張がとおり、そこで盛大な迎えの軍勢が三国に至った。男大迹は胡床に腰をかけ、泰然自若として迎えの人びとを引見した。二日三晩、使者たちを待たせて熟慮のすえ、ついに河内馬飼首荒篭の情報を聞いて、初めて大王位承諾の決断を下した。ではなぜ、男大迹は二日三晩熟考を重ねたのか? その理由は大伴金村にある。大伴氏といえば、狗奴国の邇邇藝が日向の高千穂に天降った時随伴した天忍日が始祖である。勿論、大伴氏は、神武王朝の重臣でもあった。時の朝廷の大連が狗奴国人(あるいは奴国)の末裔であったのだ。男大迹は、大伴金村の意を疑ったのである。そこで、密かに、馬飼首荒籠(うまかいのおびとのあらこ)を使って大臣達の真意を探らせ、重臣が本心から男大迹王を天皇として迎える意志であることを確認して、ようやく三国を発ち、樟葉宮(くすはのみや)に入ったのである。
   継体元年(507年)、河内国樟葉宮(大阪府枚方市楠葉)で即位する。ここで四年を過ごす。この近くの淀川の砂洲には馬牧場があった。応神十五年八月に、百済から良馬二匹が贈られ、天皇は阿直吉師に飼育させていた。それ以前、新羅遠征で、神功皇后に降伏した新羅の王が飼部(うまかい)となることを誓約している。馬を梳る櫛と鞭の献上とともに新羅人の馬飼も渡来していたであろう。この頃には、貴人の乗馬は普通になっており、そのため、河内国には馬牧場があった。そこに親交のあった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとのあらこ)が居た。継体天皇は即位したものの、まだ、大和には入らず、荒籠の飼育する馬で逃げ出せるように警戒しつつ、大和王権の重臣たちの動向を探って四年を過ごしたと言えよう。「より高い地位にある血統が万が一にも見いだされれば、皇位継承の争いを避けるために抹殺される」ことを、継体天皇は警戒していたのだ。そして、ここで、自分が、応神天皇の御子の若沼毛二俣王の四代目の子孫であり、それ故に天皇として迎えられたという事を知るのだ。また、応神天皇以後の皇統が邪馬台国王統を継承するものに限られる事を知り、自身の皇位継承の正当性が、大和の都の群臣や国民に十分に認知されていない事も知るのだ。さらに、自身のルーツを確認するために山背の筒城に宮城を建てて、遷都し、そこで政務を行う。

   継体五年、宮城を山背の筒城(つつき、山城国綴喜郡筒城郷、現在の京田辺市)に遷す。ここで七年を過ごす。この山城国綴喜郡筒城郷には神功皇后の祖父の迦邇米雷を奉斎する朱智神社があり、まさに応神天皇の生みの親、神功皇后の本貫地なのである。神功皇后系息長氏の本貫地でもあるのだ。そして、応神天皇の「御後胤」が残され、その子孫が自分である事を認知したのだ。時代は遡るが、仁徳三十年、皇后磐之媛が紀伊国に遊びに行った隙に、天皇が八田皇女と浮気したことを知る。皇后は天皇に愛想を尽かしたのか、都に戻る事なく、奈良山から故郷の葛城邑を望んで望郷の歌を読む。そしてそのまま山背に戻り、木津川を下って筒城に宮を建てて終世を過ごす。磐之媛は、余生を過ごすため、義理の祖母神功皇后の本貫地に身を寄せたのだ。勿論、息長氏が世話をしたことはいうまでもない。また、そこには応神天皇の御子の若沼毛二俣王がいた。異母兄である。磐之媛は義兄との親交を持ったであろう。山背国の筒城は、そういう所なのだ。
   継体天皇は筒城の宮での七年間、木津川から淀川および琵琶湖の水運を支配して、近江、河内、大和から以東、さらに瀬戸内海沿いの国々の国民に「継体天皇が応神天皇の血統を引く正当な継嗣」である事を知らしめたのだ。
   さらに、神功皇后の祖父の迦邇米雷も、曾祖父の山代之大筒木真若も日葉酢媛(ひすばすひめ)と同じ丹波出身の媛を娶っている。日葉酢媛の父は丹波道主であり、祖母は息長水依比売(おきながのみずよりひめ)である。この系図も、天皇は筒城宮で認知したのだ。そこで、弟国に宮を建てて遷都する。

   継体十二年、弟国(おとくに、京都府長岡京市今里付近?)に宮城を遷す。なぜ、ここに遷都したのであろうか? 『紀』は垂仁天皇十五年条に「皇后の日葉酢媛の妹の竹野媛は、その容姿が醜かったので、後宮に迎え入れられず、出生地の丹波国に返された。それを屈辱に思った媛は、途中の葛野(かどの)で自ら輿から落ちて死んでしまう。そこで、その土地が堕国(おちくに)と呼ばれるようになり、なまって弟国になった」と記す。悲しい弟国の地名起源説話である。大和周辺および丹波の国民はこの地名説話は人づてに語られ、知っていた。継体天皇は筒城宮で丹波道主や竹野媛の事を知った。だけれども、天皇は、丹波道主を祖とする狗奴国系統が残存する丹波の地に出かける事を避けたのだ。後述するが、男大迹王が近江に見いだされる以前には、仲哀天皇の五世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)が丹波に居たのである。それ故、竹野媛の地名伝承がある弟国に宮城を移して丹波・摂津に至る陸路を支配し、そこで自身のルーツに丹波国の豪族が関係していた事をデモンストレーションし、丹波の住民との融和をはかったのである。実は、竹野媛の説話も、継体天皇が弟国に遷都する事を暗示するための「先触れ挿話」であったのだ。

   筒城宮での七年、弟国宮での八年は、継体天皇自身のルーツと皇統の正当性を国民に(邪馬台国末裔および狗奴国末裔)、周知させるための期間でもあったのだ。淀川、木津川および琵琶湖の水運を支配して、また、丹波にいたる陸路を支配して、広く国民に「天皇が応神天皇の血統を引く」事を知らしめたのだ。当時、天皇や重臣は馬に乗る様になっていた。馬飼首荒籠の配下は、馬を飼うだけではなく、中央や地方の貴人が乗る馬の御者もしていた(履中朝から乗馬はかなり普及していた)。当時、馬飼は下賤とされていた。馬をもつ貴人達は、下賤とみなしていた馬飼の前では本音がでたであろう。継体天皇の評判をスパイできた。スパイして得た情報は逐一、馬飼首荒籠に報告され、天皇に伝えられた。十五年をかけて、天皇が邪馬台国王統を継承できる血統にある事を国民に理解させたのだ。
   それで、天皇が邪馬台国王統を継承できる血統にある事を国民に理解さしたが故に、継体二十年、天皇は大和国に入り、磐余の玉穂に都を構えたのだ。王朝の群卿・群臣はだれも天皇に刃向うことは出来なくなっていたからである。
   継体天皇は即位後、武烈天皇の姉(仁賢天皇の皇女)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とする。皇后は二十九代欽明天皇を生む。また、妃に尾張氏の目子媛を娶り、二十七代安閑天皇と二十八代宣化天皇をもうける。このようにして母系により邪馬台国の血統は強められたのである。
   男大迹王はこのようにして邪馬台国王統の体制を継承した、それゆえに繼體天皇という漢風諡号が贈られたのである。しかし、これで、継体天皇から平成天皇に至る邪馬台国系皇統が確立したわけではない。後世、狗奴国系王統が再度復活することになるのだ。