目次
第七章
邪馬台国王統の復興と継続の危機
二十六代継体天皇
(2)磐井の乱と任那の日本府
継体二十一年(527年)、半島の新羅に奪われた南加羅・喙己呑を復興するために任那 (みまな) の日本府に向かう朝廷軍を妨害するため、新羅の賄賂で籠絡された筑紫国造磐井が挙兵した。継体天皇は大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに討伐軍の将軍の人選を諮問し、物部麁鹿火を推挙した。翌二十二年、朝廷は物部麁鹿火を派遣して磐井の乱を制圧した。乱後の二十三年、継体天皇は近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせた。天皇は、磐井の乱鎮圧に腹心の物部麁鹿火を派遣するが、大伴金村は派遣していない。これは、派遣した大伴金村が磐井や新羅と組んで九州を制圧し、倭国を二分する様な内乱となることを心配してのこととしたい。それ以前(継体六年)に百済からの任那四県の割譲要求があり、大伴金村はこれを承認しているが、その時、百済から賄賂を受け取っていた。継体天皇は、このことも、馬飼首荒篭のスパイにより、知っていたのであろう。それゆえ、大伴金村を信頼していなかったのだ。結局、任那は新羅により滅ぼされる(562年)。欽明紀は記す「新羅は長戟・強弩で任那を攻め、大きな牙・曲がった爪で人民を虐げた。肝を割き足を切り、骨を曝し屍を焚き、それでも何とも思わなかった。任那は上下共々、完全に調理された」。読んで吐き気を催す凄惨さであるが、これが新羅人の本性なのである。後世にも、新羅人が対馬に侵入し、住民に残虐の限りを尽くしたことは前述した。
*近年、中学校社会科の教科書に記述があるものの、「任那日本府」の存在を否定する様な意見もある。この事は日本の歴史の冒涜である。また、「帰化人」(文化の低い国から文化の高い国に移籍した人)の呼称はやめ、「渡来人」とすべきとの韓国系作家や上田正昭らの意見を取り入れ、多くの書物は「渡来人」と記す。これは韓国側に迎合してのことであろう。しかしながら、今の韓国・朝鮮人と往時の新羅・百済人との継続性はなく、日本の学会が韓国の捏造歴史に迎合する理由もない。日本の学者・研究者は、歴史を正しく認識し、「任那日本府」の実在と「帰化人」の呼称をきちんと認めるべきであると、私は主張したい。
**継体朝になると、種々の事蹟は、「紙と筆」による筆録が行われる様になったと考えられる。本稿では、二十九代欽明天皇から敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇、舒明天皇および皇極天皇の時代の論考は省略したい。『紀』の記述で、任那の日本府の滅亡、丁未の変(物部守屋の変)、聖徳太子、蘇我氏の専横と大化の改新、遣隋使・遣唐使、百済滅亡など、十分に時代を読むことができるからである。