天武天皇即位前紀
(1)大海人の出自と妃

   最後になるが、『古事記』と『日本書紀』の編纂を発案したとされる、天武天皇について論考しよう。
   男大迹王が見いだされる前の事になるが、大臣の大伴金村、物部麁鹿火そして巨勢男人らにより、宮中の記録が検証され、丹波国桑田郡(京都府亀岡市)にいた仲哀天皇の五世の孫である倭彦王もまた皇位継承者として抜擢されていた。倭彦王(やまとひこのおおきみ)は、迎えの大伴金村の武装兵士をみて自分を殺しにきたと恐れをなし、山の中に隠れて行方不明となってしまった。兵士の派遣を雄略天皇の皇族狩りと覚え、それを怖れたからと伝わる。後から、舎人がどれだけ探しても倭彦王を発見できなかった。倭彦王はこつ然と姿を消したのである。

   過去にも同じ様に行方不明となった皇子がいた。市辺押磐皇子である。大泊瀬稚武皇子(後の雄略天皇)により近江の蚊屋野へ狩猟に誘い出され、「猪がいる」と偽って射殺されたのだ。しかし遺体は発見できなかった。この事件には後日談がある。御子の億計王と弘計王は播磨国に逃れるが、清寧天皇の御世に見いだされて宮中に迎えられ、顕宗天皇と仁賢天皇に即位する。そして顕宗天皇(弘計王)は置目老嫗(おきめのおみな)の案内により亡父の遺骨の所在を知ることになる。置目老嫗は蚊屋野で、市辺押磐皇子暗殺の一部始終を目撃していたのだ。「大泊瀬稚武皇子は、射殺した市辺押磐皇子と遺骸を抱いて嘆き悲しむ舎人の佐伯部仲子をも殺し、また二人の遺骸を切り刻み、馬の飼葉桶に入れ、地面と同じ高さになるように埋めていた」のだ。それで長らく遺体の所在がわからなかったのである。顕宗天皇は置目老嫗に感謝し、大いに慰労したことは、言うまでもない。

   後世、遺体が見つからずに行方不明になった天皇がいた。「天皇は、馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった」『扶桑略記』(僧皇円 平安時代末)。それが、天智天皇である。天智天皇の死後、壬申の乱(672年)を興して皇位に着いたのが大海人皇子、後の天武天皇である。その天武天皇の命により古事記(「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」)と日本書紀(天武十年)の編纂が行われることになるのである。

   それでは、所在不明となった倭彦王は、どうなったのか? 実は大臣の大伴金村が丹波国に出向いた時、おびえて山中に逃げた倭彦王を密かに連れ去り、邸宅にかくまっていたのだ。なぜ、金村は、倭彦王を密かに匿ったのか? 大伴氏の始祖は天忍日であり、邇邇藝とともに狗奴国から日向の高千穂に天降っていた。また、磐余彦の東征では、曾孫の道臣が大久米の軍を率いて熊野から大和国まで転戦し、神武天皇の大和王権樹立に大いに貢献した。その後、狗奴国系の大王家(天皇家)と共に歩むことになる。垂仁朝では、武日は物部十千根らと共に、大夫になる。景行朝では、武日が倭建の東征に吉備武彦と共に従い、その功により、靫負部を賜る。大伴連武持は仲哀朝の四大夫で、初めて大伴宿禰姓を賜った。応神天皇から始まる邪馬台国系王統の時代には大伴氏は冷遇されたようであるが、允恭朝になって、大伴連室屋が政権内に登場する。室屋は、雄略天皇即位に伴い、物部連目と共に大連となる。室屋の子の談(かたり)は、新羅掃討に派遣されるが、戦死する。談の子、金村は平群臣真鳥・鮪父子の乱を平定、武烈天皇を即位させ、自らは大連となる。以後、金村は半世紀近くにわたって政治的実権を掌握することになる。大伴連金村は、後嗣のない武烈天皇の後継者を求め、宮中の記録を検証し、丹波国桑田郡にいた仲哀天皇の五世の孫である倭彦王を皇位継承者として抜擢したのである。しかしながら、金村は、倭彦王はとてもではないが大王となる器量ではないと見破ったのだ。だがしかし、大伴氏にとって、仲哀天皇の後裔の倭彦王は歴代の主君(狗奴国系王統)の後裔であった。だから、私邸に連れ帰り、密かにかくまったのである。

   欽明一年(540年)、大伴金村は任那政策の失敗を物部尾輿らに責められ、失脚する。
   欽明二十三年(562年)、金村の子の狭手彦が大将軍として高句麗を討つ。
   用明二年(587年)、同じく金村の子の噛 (くい=咋子) が、蘇我馬子による物部守屋討伐軍に参加する。この時、物部本宗は滅亡する。591年任那復興のため大将軍として出陣。608年隋使「裴世清」を迎える。
   崇峻天皇が即位(588年)すると、金村の子糠手 (ぬかて) の女小手子 (おてこ) が妃となる。大伴氏の女が初めて妃となったのである。
   推古元年(593年)、厩戸皇子が立太子(聖徳太子)し、大伴屋栖古 (やすこ) が太子側近の侍者となる。
   推古二十二年(614年)、中臣御食子の妻大伴夫人(智仙娘、大伴咋子の女)が鎌子(後の藤原鎌足)を生む。
   大化五年(649年)、粛清された蘇我倉山田石川麻呂の後任として大伴長徳が右大臣に就任する。
   白雉二年(651年)、右大臣大伴長徳が死去する。その後、孝徳朝末期以後、天智朝まで大伴氏の動静は伝わっておらず、また斉明朝末年から天智初年(661~663年)にかけての百済救援にも大伴氏の活躍は記録されない。この期間大伴氏は中央政界から疎外されていたようにみえる。
   そして倭彦王から百余年後、その倭彦王の子孫が、大伴家で生まれるのである(出生年は不明)。磐余彦に似た武勇・叡智に優れた大丈夫であったが、いささか猜疑心が強かった。それが、大海人(後の天武天皇)である。天武紀では舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)の皇子とされ、中大兄皇子(後の天智天皇)と同母兄弟とされている。これは、『紀』編纂時の捏造であろうと私は考える。『天武紀』は歴代天皇の中でただ一人、巻第二十八(壬申の乱)と巻第二十九(即位から崩御まで)の二巻を占めているが、大海人が、天智天皇の東宮になるまでの状況がまったく記されていない。実兄とされる天智天皇が皇子時代、決死の覚悟で決行した「乙巳(いっし)の変」(いわゆる「大化の改新」)にも、また、百済復興のために老母の斉明天皇を旗印にして大軍を率いて筑紫朝倉宮に征西した期間でも、大海人の同行は明確でない。これらのことは、中大兄皇子と大海人の兄弟関係を十分に疑わせる。私は、「大海人は、倭彦王と大伴氏の女の子孫であり、狗奴国王統の血脈を引き継いでいる」と考える。

   『紀』は出生の詳細を記さないが、天武天皇の殯があった朱鳥元年(686年)九月二十七日、第一番に天武天皇の「壬生のことを誄したてまつった」人物がいる。その人物は大海宿禰蒭蒲(おおあましのすくねあらかま)である。凡海氏=大海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。「壬生」は、「養育」のことであり、凡海氏が大海人の養育にあたったと考えられる。その大海人の名は、凡海(おおあま)氏の女性が乳母であったことから付けられた(Web)。そして、阿曇氏の本貫は奴国であり、狗奴国の本貫でもある。当時、不遇をかこっていた大伴氏が、百済救援と新羅西征の重鎮であった凡海氏に、大海人の養育を依頼したのであろう。そこで、畿内にいた帰化新羅人に武術と天文・遁甲 (とんこう、占術・呪術) を学んだとしたい。なぜ新羅人からと言えるのか? 『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智七年(668年)のこととされている。この説話に見る大海人と天智天皇の関係は、兄弟というよりは主従と見る方が理に合う様に感じる。この時、大海人が使った長槍が重要なのである。長槍は長戟(ながきほこ)で、(おそらく唐から伝わった)新羅人の武器であったのだ。欽明紀に「新羅は長戟・強弩で任那を攻め、大きな牙・曲がった爪で人民を虐げた。云々」とあることは前述した。大海人もまた、長戟つまり長槍の名手であったのだ。また、『紀』は「天武天皇は天文・遁甲を能くした」と記す。推古天皇十年(602年)に百済僧観勒による暦本・天文・遁甲方術書の移入があった。推古天皇紀あたりから、天文の記事が多くなり、誓約(うけい)にかわり、天文・自然現象で吉凶を占う占術記事も多くなる。朝堂院で天文・遁甲方術が行われたことが窺える。大海人も、帰化新羅人(あるいは、宗主国の唐王朝の鮮卑人かもしれない)から長戟、天文・遁甲を学んだとしたい。本稿で私の考える大海人は、大伴夫人(智仙娘、大伴咋子の女)を介して、中臣鎌子(藤原鎌足)(614〜669年)とその子の藤原史(不比等 659〜720年)に繋がっているのだ。大海人は、有能な新羅人(あるいは鮮卑人)を、鎌子から紹介されたと、私は考える。孝徳朝末期以後天智朝まで、中央政界で大伴氏は不遇をかこっていたようであるが、このころ、長じた大海人は中臣鎌子の引き立てで朝堂入りし、遁甲を駆使して活躍し、中大兄皇子の寵を得たとしたい。白雉四年(653年)、中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち、孝徳天皇が造営した難波京から倭京(飛鳥)に移った。その時、大海人は中大兄皇子らと行動をともにしている。『紀』は皇弟と記す。これが、大海人の初出である。

   倭京の宮廷には、中大兄皇子の幼い娘の大田皇女と鵜野讃良皇女がいた。二人の母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘 (おちのいらつめ) である。石川麻呂は、乙巳の変で中大兄皇子や中臣鎌子が蘇我入鹿を討った時の同士であった。後に誣告により蘇我石川麻呂は中大兄皇子に攻められ自害した。遠智娘は父の敵の中大兄皇子に嫁ぎ、大田皇女と鵜野讃良皇女 (うのささらひめみこ)、弟の建皇子を生んだ後、父の死を嘆きつつ、やがて病死する。建皇子は唖であり夭折する。大田皇女と鵜野讃良皇女は、これらの悲劇を十分に知っていながら、祖父を自害に追いやった中大兄皇子の許で暮らしていたのだ。鵜野讃良皇女の生い立ちについて『紀』は詳述しない。その名前から、河内國更荒郡鵜野邑 (ささらぐんうのむら)、すなわち、讃良郡鵜野村 (ささらぐんうのむら、大阪府四条畷市岡山のあたり) が皇女名の由来であり、讃良郡鵜野村に住む宇努連 (うぬのむらじ) 出身の女性が彼女の乳母であったとする説がある (『北河内古代人物史』Web)。宇努連は帰化新羅人の裔孫とされる(欽明二十三年条)。宮廷に入った大海人は、境遇に複雑な感情を抱く大田皇女と鵜野讃良皇女の人生相談(遁甲による占。大海人は壬申の乱の時、式〔筮竹〕で占を行っている)を行ううちに、情を通じ、二人を娶ることになったとしたい。鵜野讃良皇女(後の持統天皇)は、斉明三年(657年)に十三歳で大海人に娶られた。そして、六年後(天智元年662年)、草壁皇子を筑紫の那の大津の宮で生んだ。大海人が大田皇女を娶った時期は不明であるが、斉明七年(661年)、百済救援のため那の大津に向かう途中の中大兄皇子一行の乗った船が、大伯(おおく)の海の上(岡山県瀬戸内市の沿岸)を通過している時に大来皇女(後の伊勢斎王)を出産した。また、天智二年に大津の宮で大津皇子を生んだことから、鵜野讃良皇女と同じ様な時期に大海人に娶られた可能性がある。天智二年九月に白村江で百済救援軍は、唐の船軍に敗北して筑紫の那の大津(博多湾)に戻っている。斉明七年から天智二年まで、大海人は中大兄皇子と那の大津の宮にいたはずであるが、動静は全く伝わっていない。いずれにしても、中大兄皇子にとって扱いの難しい二人の皇女を大海人に娶らせた対価として、大海人に皇弟の尊称を賜ったと考えたい。天智天皇紀で大海人は、天智三年に大皇弟として初出する。八年(669年)五月条でも大皇弟であるが、十月条では東宮太皇弟となっており、この頃に東宮になったと思われる。ただし、東宮(皇太子)とは名ばかりであった。事実、天智十年(671年)、天皇は第一皇子の大友皇子を太政大臣に任命し、大友皇子に皇位を継がせる意図をみせている。

   大海人は後に、同じく天智天皇の皇女の大江皇女と新田部皇女を妃にしている。大江皇女は天武二年(673年)に妃となったとされ、長皇子と弓削皇子をもうける(二人は『万葉集』に歌を残している)。新田部皇女は天武の妃となり、天武五年 (676年) に舎人皇子を生んでいる。この二人の皇女は、天智天皇の崩御後に天武天皇の妃になっているようである。そのうち、新田部皇女は橘娘 (たちばなのいらつめ) を母にもち、その父の安倍内麻呂(倉梯麻呂)は田村皇子(後の舒明天皇)の擁立に働き、孝徳朝で左大臣を務めた。系図を遡ると、崇神天皇の皇后御間城姫の父大彦に至る(おとくに『古代豪族』Web)。まさに安倍氏は狗奴国血統を継いでいるのだ。天武天皇にとって新田部皇女は、遥かなる遠祖に繋がる重要人物であったのだ。宮廷に残る記録を見て、天武天皇のほうから新田部皇女を求めて娶ったとしたい。このようにして、『日本書紀』編纂の立役者、狗奴国血統の天武天皇と舎人親王が揃ったのである。

   先に、大海人は、胸形君徳善の女、尼子娘を納して高市皇子をもうけていた(白雉五年 654年)。兄弟の中では最年長である。高市皇子は壬申の乱では総大将となり、大海人を勝利に導くことになる。尼子娘は寝所にはべる女官とされる。大海人は、なぜ身分の低い女を最初に納さねばならなかったのか? 皇弟にしては不釣り合いである。この頃、朝堂での大海人の身分は低いものであったとしたい。白雉五年には第三次遣唐使が派遣されている。遣唐使の派遣に胸形氏の海人が動員され、その関係で、大海人は胸形君と好誼を結んだのであろう。なお、天武朝から文武朝で再開される(天宝二年702年)まで、遣唐使は中断する。天武天皇とその政治を引き継いだ持統天皇は、「華夏の王朝へ朝貢せず」とする狗奴国の「正義」を貫いたのであろうか。文武朝での遣唐使の再開は、開明を望む藤原不比等の政策であったのであろう。

   斉明朝の宮城に登壇するようになった大海人は、宮城の一角にある堂から不思議な謡が聞こえてくることに気づいた。それは猿女君の「誦」であった。「誦」は、王家の遠大な歴史を物語っていた。大海人は天皇や皇后・妃の殯で誄(しのびごと、死者の生前の功徳をたたえて哀悼の意を述べる言葉)は知っていた。「誦」は誄の大元のように覚えた。遡る皇極四年(645年)に蘇我蝦夷の変で書庫が放火され、多くの史書が焼失していた。再度、猿女君の歴史を物語る「誦」が重要性を増していたのだ。大海人は「誦」に興味を持ち、それを温ねるうちに大王(おおきみ)に仕える大伴氏の遠祖天忍日や道臣の物語から、狗奴国王統を理解し、自身がその王統の血統にあることを自覚したのだ。だが時代は邪馬台国王統の大王の御世であり、仲哀天皇の死後、狗奴国系王権は途絶えていた。大海人は、その仲哀天皇の裔であることを自覚したのだ。
   その猿女君に混じり、記憶力抜群の少年がいた。阿礼である。「目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない」異能をもっていた。大海人は、即位後に阿礼を舎人として召し、猿女君の全ての「誦」を記憶するように命じたのである。阿礼二十八歳と伝わる。後日、阿礼の誦習を太安萬侶が筆録して『古事記』を編纂し、和銅五年(712年)に、元明天皇に献上された。私は、「勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代旧辞」(『古事記』序)を以下の様に考える。書に記録された『帝皇日継』・『先代旧辞』をわざわざ誦して、阿礼に誦習させる必要は無い。書き写せばよいだけである。阿礼が実際に行ったのは、猿女君の全「誦」を誦習することであったのだ。阿礼は、倭語は理解出来たが、漢文は行えなかった。それで太安萬侶が筆録して『帝紀』・『旧辞』が編纂された、と考えるのである。