目次
第八章
狗奴国系王統最後の光芒
壬申の乱の後始末
(2)狗奴国の裔との好誼
大海人が、乱に勝利した要因に、各地に居る狗奴国の裔の情報を得て、好誼を結び、着々と味方を増やしたことにあるとしたい。その情報は、大海人が温ねた猿女君の「誦」から得たのである。
まず、乱で武勲をあげた大分君恵尺と大分君稚臣について述べよう。大分氏(大分君)は豊後国大分郡の豪族であり、倭国で神武天皇がもうけた神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする皇別である(『記』)。ではなぜ、豊後国大分郡の豪族が、倭京で大海人の舎人となっていたのか? 前述したように、『紀』では詳細を記さないが、大海人は天智天皇とともに、百済救済に那の大津の宮に来ていたと思われる。この時、大分氏と好誼を結び、子弟を舎人として京に召したとしたい。
次に、伊賀・伊勢国は神武天皇の重臣の天日鷲(天日別)が平定し(『伊勢國風土記』)、その裔孫が国造になっていた(『先代旧事本紀』)。前々から間諜を介して国司に交誼 (こうぎ) を結んでいたのだ。「人誑(たら)し」(人を操る術)である。国司にとって東宮と交誼を結ぶことは栄誉になる。
また、美濃国安八麿郡湯沐邑(ゆのむら)であるが、湯沐邑は、「東宮の食封」であり、当時は、大海人東宮の経済的・軍事的基盤であった。美濃国造(三野前国造 みののみちのくちのくにのみやつこ)は開化朝に、皇子彦坐王の子の八瓜命 (やつりのみこと) を国造に定められたと『先代旧事本紀』にあり、磐余彦(神武天皇)の裔になる。景行朝では、天皇は美濃の弟媛のかわりに召した姉の八坂入媛に七男六女をもうけさせている(景行記では、大碓が弟媛と兄媛ともに婚あったとなっている)。景行紀では、四十年、蝦夷征伐の命を恐れて逃亡した大碓皇子を美濃国に封じている。このように狗奴国系王家と美濃の繋がりは強いのである。大海人は、狗奴国裔の身気君広(むげのきみひろ)を美濃国に見いだし、舎人として京に召し上げるとともに、安八磨郡の穀倉と産鉄に目をつけて湯沐邑に定めたとしたい。身気君広は大碓皇子の末裔であるのだ。そして、多臣品治(おおおみのほむじ)・田中臣足麿(たりまろ)とも交誼を結び、湯沐令に任命した。また、村国連男依・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)も美濃国出身で、舎人として京に召され、湯沐令との連絡係をしていたようである。
このように、大海人は、猿女君の「誦」から各地の狗奴国の裔の情報を得て、好誼を結び、着々と人脈を築いたとしたい。