飛鳥浄御原宮での天武天皇
(3)『古事記』編纂

   『古事記』・『日本書紀』編纂について述べる。『古事記』については、その序によれば、和銅五年(712年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上されたことになっている。編纂の動機付けは、天武天皇が、猿女君の「誦」に己のルーツがあることに気づき、阿禮に命じて「誦習」させたことにあったことは、前述した。
   思い出して欲しい。天の岩屋戸に天照大神が籠った時、磐戸の前で天鈿女が謡い、踊った。天鈿女の「謡」は、皆既日食の朝、殺害された卑弥呼に対する誄(しのびごと)であったのだ。台与が立てこもった卑弥呼の宮殿の前で行われた誄であったのだ。『魏志倭人伝』は記す「其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒」(・・・喪主は慟哭し、他の参列者は歌や舞で死者を悼み、酒を飲む)。邪馬台国での「葬儀の謡」は誄を表しているといえよう。天鈿女の誄は「卑弥呼の一代記」であり、それが「天照大神神話」として脚色され、猿女君が「誦習」して伝えてきたのだ。

   天武天皇が阿禮の「誦」を巧みに改竄していたことは、既に述べた。もう一度、磐余彦(神武天皇)のルーツである「日向三代」が、南九州地方にコピーされた理由を考察しよう。コピーを実践したのが、隼人族である事は前述した。では、なぜ隼人族であったのか?実は、仁徳朝に京に住まわされて以来、隼人族と最も親密な天皇が天武であったのだ。天武十一年七月、多くの隼人が宮殿にきて、国の産物を貢った。天武天皇は阿多隼人と大隅隼人を宮庭に召して相撲をとらせ、飛鳥寺の西で饗応している。阿多隼人と大隅隼人の名前の初見がこの時である。朱鳥元年、天武天皇の殯に際し、誄をたてまつっている。その後の持統朝でも、大隅隼人が相撲を見せている。このように、天武天皇は隼人と親密にしていたのだ。隼人族の魁帥が、海幸彦の裔であることを知った天武天皇は、日向国に近い南九州を根拠地とする隼人を利用して、『古事記』にある「日向三代」の事蹟、地名、宮殿、陵を隼人の根拠地に移植させたのだ。そこが、現在の宮崎県南部と薩摩・大隅半島である。薩摩半島にある隼人の根拠地とされる「阿多」の名前も、その時つけられたとしたい。もちろん、霧島連山の高千穂峰も韓国岳もその時名付けられた。クーデターで王権を簒奪した天武天皇は、自身の遠祖の「日向三代」の歴史が、邪馬台国系王統の代になって抹消されることをおそれたのだ。たとえ真の「日向三代」の地が抹消されても、王権に反抗的な隼人族の地でコピーは残されることを、願ったのだ。隼人の反乱は、征隼人将軍大伴旅人によって征討(721年)されるまで、たびたび起こっている。天武天皇のこうした配慮と『記』の改竄が、後世、『古事記』に基づく歴史解析を混乱に陥れる事になるのだ。
   阿禮の「誦」を太安萬侶が漢文体で筆録して、『古事記』三巻が出来上がったということになる。「誦」を漢文体で筆録することに苦労したことが、序に記されている「以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然 上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難」(・・・上古の時、言意並びに朴〔すなほ〕にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し)。筆録による誤記については既に考察した。
   阿禮は、稗田(奈良県大和郡山市稗田町)出身と伝わる。同町の賣太神社(めたじんじゃ)は、阿禮を主祭神とする。また、太安萬侶は、壬申の乱で勲功があった美濃湯沐令の多臣品治(後の朝臣品治)の子ともされる。その墓が奈良県奈良市此瀬町の茶畑に見つかっている。

*『古事記』編纂とその経緯に関しては諸説あることを付け加える。