持統天皇と狗奴国王統の終焉

   天武八年 (679年) 五月五日、天武天皇は即位七年目にして壬申の乱後初めて吉野へ行幸し、その翌日、
   天皇、皇后及び草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して曰ふ、「朕、今日、汝らとともに庭にて盟ひて、千歳の後に事無きことを欲す。いかに」と。皇子ら、共にこたえて曰ふ、「理実(いやちこなり)」と。則ち草壁皇子尊、先づ進みて盟ひて曰ふ、「天神地祇及び天皇、証らめたまへ。吾、兄弟長幼併せて十余り王、各おの異腹より出でたり。然れども、同じきと異れると別かれず、倶に天皇の勅に随ひ、相扶け忤ふること無し。若し今より以後、この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ。忘れじ、失せじ」と。五皇子、次以って相盟ふこと、先の如し。然して後、天皇曰ふ、「朕が男等、各おの異なる腹に生まれたり。然れども今一母同産の如く慈む」と。則ち、襟を披き其の六皇子を抱く。因りて以って盟ひて曰ふ、「若し茲の盟ひに違へば、忽ち朕が身亡はむ」と。皇后の盟ひ、且天皇の如し。
   いわゆる、「吉野の盟約」である。天武天皇は、没後に予想される皇子たちによる内紛を回避するため、盟約を壬申の乱発祥の地である吉野で厳粛に執り行ったのである。この時、鵜野讃良皇后にしてみれば、自らが産んだ草壁を、大津皇子・高市皇子などを抑えて、皇太子とする地固めをしたと覚えたのかも知れない。

   朱鳥元年(686年)九月に天武天皇が崩御すると、大津皇子は、十月二日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余にある訳語田(おさだ)の自邸で自害した。享年二十四歳と伝わる。妃の山辺(天智天皇の皇女)は、髪を振り乱して裸足で駆けつけ、 あとを追って殉死した。それを見た人々はみな涙を流したと伝わる。早速、鵜野讃良皇后は、姉の大田皇女の忘れ形見、大津皇子の粛正を行ったのである。病弱で、器量に劣る草壁皇子を皇位につけたいと目論む皇后の謀略である。天武天皇との盟約を早々に、皇后自らが破ってしまったのだ。皇后の母性の成せる術なのか? 皇后は、讃良郡鵜野村に住む宇努連の乳母に養育されたと伝わる。宇努連は帰化新羅人であるという。「裏切り」は新羅流教育の項目なのであろか? 皇后の期待むなしく、草壁皇太子は、天武天皇の殯開け(持統二年 688年)の翌年の四月十三日に、皇位に就くことなく薨去したのである。
   持統四年(690年)一月一日、鵜野讃良皇后は天皇に即位し、高市皇子と政治を行う。そして藤原京造営を始め、持統八年に遷都する。天武天皇と草壁皇太子と暮らし、大津皇子を死に追いやった飛鳥浄御原宮から離れるのである。その後、京師は平城京へと遷る。しかしながら、「吉野の盟約」で草壁皇子が述べた「この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ」とする誓いの言葉とおり、草壁の血統は内紛を重ねた末、天武天皇の狗奴国皇統は九代(673〜770年)をもって、潰えるのである。

 この奈良朝における天武天皇の子孫が関連する事件は、文武天皇と石川刀子娘の御子である広成皇子と広世皇子の皇籍剥奪に始まり、高市皇子の御子の長屋王が讒言により自殺(長屋王の変)、塩焼王(天武天皇の孫)の伊豆配流、安積親王(聖武天皇第二皇子)の暗殺、道祖王(天武天皇の孫)廃太子とその後の橘奈良麻呂の変連座による拷問死、恵美押勝の乱連座による淳仁天皇(舎人親王の御子)などの配流、、和気王(舎人親王の孫)絞殺、不破内親王(聖武天皇の皇女)の淡路配流、井上皇后(聖武天皇の皇女)廃后とその後の幽閉死、他戸親王(光仁天皇の皇子)廃太子と幽閉死などがあげられる。天武天皇玄孫で生涯独身であった孝謙天皇(女帝 749~758年、重祚で稱德天皇 764〜770年)をもって、天武系皇統は消滅する。

   このように度重なる政変による粛清によって、天武天皇の嫡流(男系)にあたる皇族がいなくなった。ここで井上内親王の悲劇について語ろう。井上内親王は聖武天皇の皇女であり、十一歳から伊勢神宮の斎王を務めていた(727〜744年)。斎王の任を解かれ、帰京後、天智天皇の第七皇子・施基親王(志貴皇子)の第六子である白壁王の妃となった。白壁王との間に生まれた他戸王は、女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く唯一の男性皇族であった。このことから孝謙天皇の遺宣に基づいて他戸王の立太子が行われ、神護景雲四年(770年)十月一日、六十二歳の白壁王が即位する。光仁天皇である。即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てるが、宝亀三年(772年)三月二日、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、また、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。その後さらに、宝亀四年(773年)十月十九日、去る十四日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)の殺害を呪詛したという嫌疑を掛けられ、他戸親王と共に庶人に落とされて大和国宇智郡(奈良県五條市)の邸に幽閉される。そして、幽閉先で他戸親王と同日に薨去するのである(殺害ともされる)。斎王井上内親王の悲しい物語である。

   他方、宝亀四年(773年)、光仁天皇の第一皇子山部親王(白壁王と百済帰化人の子孫である高野新笠の御子)が立太子する。天応元年(781年)に光仁天皇から譲位されて天皇に即位する。桓武天皇である。このようにして、四十九代光仁天皇と五十代桓武天皇で、天智天皇嫡流の皇統が復活するのである。延暦十三年(794年)、桓武天皇は、天武皇統による度重なる政変による粛清、肥大化した仏教寺院の勢力を嫌い、平城京を捨て、平安京に遷都するのである。
   その京都市東山区に皇室の菩提寺である泉涌寺(御寺)が建つ。その霊明殿は、天智天皇と光仁天皇から(南北両朝の天皇も含む)昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の尊牌(位牌)を安置する。そこには、天武系皇統の八人の天皇、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁の位牌は除外されており、天智からいきなり光仁、桓武へと続いているのである。邪馬台国系皇統だけが祀られているのである。『紀』を改竄して大海人と中大兄皇子を兄弟に仕立て上げたのが、藤原不比等である。しかし、現実は藤原不比等の改竄を無にしてしまっている。泉涌寺には狗奴国系皇統の位牌はないのだ。飛鳥・奈良朝の朝廷の官吏は、しっかりと歴史(皇統の変遷)を観ていたのだ。記紀編纂を発案した天武天皇は狗奴国血統最後の光芒であったのだ。