出雲の銅鐸
(2)卑弥呼の銅鐸

   須玖岡本遺跡群から南に下った佐賀県鳥栖市安永田遺跡からは外縁付鈕式銅鐸の鋳型片が発掘され、再現すれば高さ20cmほどの銅鐸が製造できるという。発掘にあたった藤瀬禎博氏(「安永田遺跡」『戦後50年古代史発掘総まくり』所収)は、その銅鐸と島根県の荒神谷銅鐸との類似性を指摘している。その後、鳥栖市本行遺跡からも古い銅鐸の鋳型が出た。その模様は加茂岩倉遺跡で見つかった銅鐸(10号銅鐸、海亀が泳いでいる絵がある)に共通する部分がある(森浩一『銅鐸と日本文化』Web)。そして藤瀬禎博氏は、この地域を、『魏志倭人伝』にでてくる「支惟(きい)国」の領域と述べる。なぜならば、律令制の時代になり、「基肄(きい)」と称されたからであると言う。興味ある意見である。いずれにしても邪馬台国連合の国では銅鐸を作っていたのである。これが、日本における銅鐸の鋳造の初見と言うのが、現在での共通認識に成っているようである。おそらく、邑長(むらおさ)が集会や緊急を知らせるために銅鐸の音を使ったのであろう。この支惟国における銅鐸の製造は、魏の遣使団が邪馬台国を訪れた240年以後と判断される。

   話を出雲銅鐸にもどそう。大國主の宮(出雲大神の宮、後の出雲大社)で、大國主を祀ったのが天穂日と天夷鳥の親子である。大國主は、経津主と建御雷に誅される前に、葦原中国を平定したとき用いた矛を示して言い残した、「天孫、若しこの矛を用いて國を治めれば、必ず平安くましましなむ」。大國主の異名八千矛神が示す様に大國主は多くの矛を以って、葦原中国を統括していたのだ。出雲大神の宮で、その矛を神宝とした天穂日と天夷鳥は、これまでの習慣であったように矛に鐸を飾ろうとしたのだ。それで、邪馬台国連合の「支惟国」から鐸の鋳造師が出雲に呼ばれたとしたい。邪馬台国連合の「支惟国」から出雲に派遣されてきた鋳造師は銅鐸鋳造の経験に基づいて、破壊された銅剣片を溶解し、鋳直して銅鐸をつくった。それが、高さ約23cmほどの外縁付鈕式袈裟襷文銅鐸であった(後の荒神谷出土の6口)。鋳あがった銅鐸は黄金色に光輝やいた。それを見た邪馬台国から移住した人々は光り輝く銅鐸に「日」を重ねた。そして黄金色に光輝く銅鐸は、「日の化身」=卑弥呼の表徴となった。

   人々は黄金色に輝く銅鐸を架に祭り、朝夕に打鳴らして「日」の無事な運行を祈った。そして卑弥呼の命日にはより盛大な祭りを行い、二度と「日」を怒らすことはしないと誓った。青銅は空気と触れると黄金色が褪色する。人々は年に一度、若い稲を乾燥させた稲藁に山で採った磨き砂を付けて銅鐸を丁寧に磨き、黄金色を保つように努めた(荒神谷出土銅鐸はいわゆる手擦れ痕をもつ)。ではなぜ、邪馬台国後裔は銅鐸をそれほどまでに祭ったのか。その理由は卑弥呼が殺された日の皆既日食にある。その日(248年9月5日)は、欠けて昇った「日」が途中で消えてしまった。当然その日は新月である、空には日も月もない、世界中暗闇に包まれた。人々は、二度と日が現れないのではないかと恐れた。時は、農耕社会である。日が照らなくなれば、稲も雑穀もなにも実らない。勿論、往時に早稲はない。日食のあった9月上旬にはまだ稲は実っていない(弥生時代に早稲品種が半島から伝わったという説があるが、現代日本で、早稲が本格普及したのは伊勢湾台風以降である)。「飢饉が起こる」、人々はそれを恐れた。二度と、「日」を怒らせてはならない。人々は、「日の化身」=卑弥呼を、銅鐸を祭って慰撫したのである。では、なぜ、出雲の民も一緒になって「卑弥呼の銅鐸」を祭ったのであろうか? それは、人々が、二世紀末の何年もの間、日照が遮られて凶作に苦しんだ、その記憶を共有していたためと思われる。そのころ地球規模の寒冷化が起こり、天候不順から凶作が続いたと言われている。『三国志』にも、後漢の桓帝と霊帝の時代に激しい凶作が続いたことが記されている。日照が農業には必須なのである。神に祈ることは、その時を生きる人の実利のためである。これは、往時も今もかわらぬ真理である。このようにして、本州島(葦原中国)では、出雲国で最初に銅鐸が作られたのである。

   そして、「卑弥呼の銅鐸」奉祭の風習は出雲の邑々に広まった。松江市鹿島町佐陀本郷志谷奥遺跡でも外縁付鈕式袈裟襷文銅鐸と扁平鈕式袈裟襷文銅鐸および6口の中細形銅剣がまとまって出土している。ここでも、破壊された銅剣片を溶解し、鋳直して銅鐸をつくったことが窺える。その後も輸入した青銅製武器を再利用して多くの銅鐸に鋳直した。鋳造師も技術を高め、30cmを越える大きな袈裟襷文銅鐸や区画内に動物や渦文を描いた袈裟襷文銅鐸を鋳造するようになった。のちには、播磨や摂津の工房からも美麗な流水文を鐸身に描く銅鐸を移入し、祭壇を作り、祭った(加茂岩倉出土の銅鐸群がこれにあたる)。