銅鐸の型式と文様

   近畿式銅鐸と三遠式銅鐸、あるいは外縁付鈕式銅鐸、扁平鈕式銅鐸および突線鈕式銅鐸などと、銅鐸は分類され、それぞれの盛行時代が推察されている(佐原真・春成秀爾説)。外縁付鈕式銅鐸や扁平鈕式銅鐸は、形態的に突線鈕式銅鐸よりも古いとされている(図6)。

 滋賀県大岩山銅鐸
図6.  滋賀県大岩山銅鐸
しかしながら、銅鐸は単独で埋納され、土器や鏡を付随することはないので、真の時代設定はまだ無いといえる。

   銅鐸にあらわされた図案をもとに考察すれば、古式とされる外縁付鈕式銅鐸の加茂岩倉出土 5、21、31、32、34号銅鐸の鐸身には流水文がある。鐸身に流水文がある外縁付鈕式銅鐸として、大阪府神於銅鐸や兵庫県気比2号銅鐸があげられる。扁平鈕式銅鐸では、兵庫県桜ヶ丘(旧神岡)1号および3号銅鐸、大阪府跡部銅鐸、奈良県石上銅鐸があげられる。扁平鈕式銅鐸の加茂岩倉出土18、23、35号銅鐸の鐸身に雲雷文がある。同じ雲雷文は外縁付鈕式銅鐸の三重県磯山銅鐸、扁平鈕式銅鐸の兵庫県渦森銅鐸のほか、突線鈕式銅鐸にも共通してあらわされている。また、大阪府跡部銅鐸、大阪府天神山銅鐸、滋賀県大岩山10号銅鐸、和歌山県晩稲銅鐸、徳島県矢野銅鐸、そして岡山県高塚出土銅鐸は、雲雷文を描く飾耳をもつ。岡山県高塚出土銅鐸、大阪府跡部出土銅鐸および滋賀県大岩山出土10号銅鐸は鐸身に流水文を描き、雲雷文と重弧文を鋳だす飾耳をもつ。加茂岩倉出土の外縁付鈕式銅鐸37号銅鐸は鈕に雲雷文をもち、扁平鈕式銅鐸20号銅鐸は鈕に重弧文をもつ。おなじように鈕に雲雷文をもつ外縁付鈕式銅鐸には三重県磯山銅鐸、扁平鈕式銅鐸には兵庫県桜ヶ丘(旧神岡)6号銅鐸、兵庫県生駒銅鐸、兵庫県渦森銅鐸などがある。鈕に重弧文をもつ銅鐸には突線鈕式銅鐸の和歌県山荊木2号銅鐸や大阪府如意ヶ谷銅鐸などがある。三遠式銅鐸の愛知県伊奈1号および3号銅鐸、静岡県悪ヶ谷銅鐸はともに、鈕と飾耳に重弧文をえがく。  特徴ある銅鐸として、鐸身に絵を描いた絵画銅鐸がある。扁平鈕式銅鐸では加茂岩倉18号銅鐸と35号銅鐸の他、兵庫県桜ヶ丘(旧神岡)4号銅鐸や同5号銅鐸、兵庫県渦森銅鐸があげられる。また、突線鈕式銅鐸では、滋賀県大岩山10号銅鐸や大阪府跡部銅鐸があげられる。

   以上見てきたように銅鐸には、外縁付鈕式、扁平鈕式および突線鈕式というように形式は異なるが、図案が共通する銅鐸が少なからずある。また、型式が異なっても、銅鐸の埋納状況はほぼ同じで、時を同じくして埋納されている。加茂岩倉では外縁付鈕式銅鐸と扁平鈕式銅鐸が「入れ子」状態で、兵庫県桜ヶ丘遺跡では外縁付鈕式銅鐸と扁平鈕式銅鐸が、また滋賀県大岩山では近畿式銅鐸と三遠式銅鐸が同時に埋納されている。以上のことから、佐原真・春成秀爾説である、外縁付鈕式銅鐸(II-1式)から扁平鈕式銅鐸(III式)を経て突線鈕式銅鐸(IV-5式)で終わる銅鐸の流行期は、史実では非常に狭く、長くても数十年以内とみるのが合理的である。佐原真・春成秀爾説では、流行の始まりがあまりにも早く、流行期間があまりにも長過ぎる気がする。倭人(日本人)の技術革新の能力を過小評価した編年である。

   銅鐸が墳墓以外あるいは住居遺跡以外の山腹や丘陵地に埋納された理由として、「次回の祭祀までの間、土中に保管した。その後保管した事が忘れられた」という異説がある。砂漠地帯ならいざ知らず、雨の多い日本で青銅器を土中に埋めれば、ひどく青錆びてしまう。祭器としての銅鐸は、金ぴかでなければならない。金ピカになるよう仕上げている青銅器を土中に埋めて青錆びさせては、祭る価値がなくなる。仏像しかり、織田信長や豊臣秀吉を例に出すまでもなく、日本人は本質的には金ピカ好みなのである。「次回の祭祀まで土中に保管」することを目的とするのであれば、錫の含有量を増やして、錆びにくい銀白色の青銅とすべきである。銅鐸は、「その埋納が忘れられた」のではない、「埋納したことを忘れさせられた」のである。  それでは、なぜ、銅鐸奉祀の風習が突如途絶したのであろうか? なぜ、銅鐸は地中に埋納され、人々の目にふれないようにされたのか? なぜ、記紀に銅鐸奉祀の風習の記述が無いのであろうか? この答えは次章に著す、崇神天皇六年のところで、出したい。