古代出雲国

   では、古代の出雲はどのような国であったのだろうか? 金谷信之氏の「投馬国出雲説ならびに欠史時代初期出雲系説」(Web)は、次のように述べている。

   「最近の考古学の成果は、出雲には並々ならぬ政治勢力が存在したことを示している。すなわち、荒神谷遺跡の368本の銅剣、加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸のみならず、鳥取県淀江町・大山町で発掘された妻木晩田(むきばんだ)遺跡では、弥生後期を中心とした時代の900棟近い住居・倉庫群が見出された。その規模は吉野ケ里遺跡を遙かに越えて全国最大であり、ここに相当の人口が集中していたことを示している。倭人伝は投馬国を戸数五万余戸とし、邪馬台国の七万余戸に次ぐ大国であって、その他の諸国よりもずば抜け多い人口であるとしている。妻木晩田の遺跡群は、出雲・伯耆・因幡地方の人口が倭人伝の述べる五万余戸に達していたと考えても何ら支障ないことを語っている」。
   つまり、出雲国の国勢は邪馬台国に比肩していたようで、『魏志倭人伝』に記された投馬国に比定されてもよいという主張である。

   私も、『魏志倭人伝』に著された投馬国を出雲国と判断している。理由は『紀』が示す。天照大神の天岩屋戸隠れ事件の張本人である素戔嗚(すさのお)が、高天原追放後、新羅(辰韓)に降臨している。そして素戔嗚は「此の地は吾居らまく欲せじ」と言って泥船を作って東に向かい、出雲の簸の川(斐伊川)に至っている。そこで、八岐大蛇退治をするのである(八岐大蛇退治は、崇神天皇段で考察する)。このように素戔嗚が新羅を捨てて、出雲の簸の川に至ったという伝承が生まれたのは、天照大神=卑弥呼の時代にすでに、出雲と三韓半島とのあいだに、渡海航路があったためと考える。また、素戔嗚は、「韓郷の嶋には金銀有り。若使吾が児の所御す國に、浮宝(船)有らずは、未だ佳からじ」と言って、「鬚髯 (ひげ) を抜いて散らし、即ち杉を成せり。又胸毛を抜き散らし、これ檜(ひのき) を成せり。尻毛を柀 (まき)成せり、眉毛を櫲樟 (くすのき)に成せり」。 そして、「杉と櫲樟で浮宝(船)を造ることが出来る」としている。ここに出てくる杉、檜、柀はいずれも日本固有種であり、櫲樟は日本以南に育つので、半島には存在しないのである。したがって、素戔嗚の「吾が児の治める国」は倭国であり、倭国での植林および造船を述べていると解釈すべきである。さらに、『魏志』韓伝は、三韓は非文明の化外の地であり、金銀は珍重されていなかったと記している「其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御・・・・不知乗牛馬牛馬盡於送死 以瓔珠爲財寶 或以綴衣為飾 或以縣頸垂耳 不以金銀錦繍為珍」(・・・紫水晶の珠飾りを財宝とし、あるいは衣に綴って飾り、あるいは首に懸たり耳に垂す。金銀錦繍を珍重せず)。金銀を好む漢人が、金銀を見逃すはずがない。三韓には金銀がなかったのである。したがって、金銀がある所と言えば、漢王朝が半島経営した楽浪郡の旧地および遼東に半独立国をつくっていた公孫氏が植民地経営していた帯方郡以外にはありえないことになる。私は、素戔嗚は帯方郡を訪れていたと私は考える。「韓郷の島」がそれにあたる。楽浪郡や帯方郡は城壁で囲まれていた。まさに韓国(からくに)の中の島であったのである。それ故、私は、出雲と帯方郡、さらには遼東の公孫氏との間に、交易および文化収得のための渡海航路があったと考えたのだ(図8)。 では「天照神話で素戔嗚命は誰を神格化したのか?」については、後述する。

半島と遼東・遼西部
図8. 半島と遼東・遼西部

   『三国志魏書』馬韓伝は、「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡 遣公孫模 張敞等收集遺民 興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂屬帶方。」と記す。建安中(196〜220年)の「是後倭韓遂屬帶方」の「倭」は列島の倭国としたい。そして帯方郡の官吏は、出雲=投馬国から来航した人々から国勢などを聴取して記録していた。その記録を見た陳寿は『魏志倭人伝』に投馬国を「(帯方郡から)南至投馬国水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利五萬餘戸」と紹介したと考えられる。帯方郡から対馬経由で出雲に至れば、旅程は水行二十日ほどとなる。帯方郡から伊都国に至る水行十日の二倍である。投馬国は出雲国であったとしたい(図5)。

邪馬台国と投馬国および海流
図5. 邪馬台国と投馬国および海流