遠岐斯鏡と瀛都鏡
(息津鏡・奥津鏡)

   『先代旧事本紀』にでてくる、天照大神が孫の火明=饒速日に授けた「天璽瑞宝十種」、いわゆる瑞宝十種のなかにある瀛都鏡 (おきつかがみ)、
辺都鏡 (へつかがみ) を論考してみよう。瀛は「うみ、海原」を意味するので「うみのかがみ」なるが、これでは意味が分からない。「おきつ鏡」は、「瀛都鏡」(石上神宮神宝、今は所在不明)、「息津鏡」(元伊勢籠神社神宝)あるいは「奥津鏡」(応神天皇記天之日矛条)として出てくる。『記』の解説では「航海の安全を守る鏡」とあるが、意味をなさない。私は、随分、意味が分からずに悩んだ。そこで、「鏡」の原点である『記』の邇邇藝の天降り条の原文を検索した。「爾天兒屋命・布刀玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命、幷五伴緖矣支加而天降也。於是、副賜其遠岐斯(此三字以音)八尺勾璁・鏡、及草那藝劒、亦常世思金神・手力男神・天石門別神而。詔者『此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉。』」となっている。この文章をよく解析して、次の事が分かった。
   邇邇藝の天降り時、一緒に天宇受賣などの五柱の伴緒を添えて天降らせた。その際、いわゆる三種の神器と思金神など三神の霊代を副せた。そのうちの八尺勾璁と鏡ならびに三神には「遠岐斯」の形容が付くのがわかった。「及草那藝劒」に「遠岐斯」の形容詞がつくかどうかについては、いずれ後に考察する。「遠岐斯」の音読みは「をきし」で、「をき」の意味は「まねく」であり、「し」は助詞である。従って、この文章は、「天岩屋戸から天照大神を招いた勾玉、鏡、(剣)および思金神ななど三神の霊代を副せ賜わった」ということになる。たしかに思金神らの神々は、天照大神が天岩屋戸に籠った時、天照大神を招き出すのに活躍していたので「遠岐斯」がつくことなる。そして、勾玉と鏡も
「賢木の上の枝には八咫鏡を掛け、中ほどの枝には八坂瓊の玉飾りを掛けて」、天照大神を天岩屋戸から招き出すのに使われた。それ故、「遠岐斯八尺勾璁」、「遠岐斯鏡」ということになる。「遠岐斯鏡」とは、「天照大神を招きし鏡」であるのだ。このように論考すると、「おきつかがみ」は、「遠岐斯鏡(おきしかがみ)」がなまったものと判断できる。瀛都鏡 (おきつかがみ) は、まさに天岩屋戸から「天照大神を招いた鏡」となるのだ。また、この鏡の別名が「真経津鏡」であり、『紀』の読みは「まふつかがみ」としているが、「まへつかがみ」とも読める。「真」は美称とすれば、「へつかがみ」となる。つまり「辺都鏡 (へつかがみ) 」なのだ。ただし、「ふつ」あるいは「へつ」の意味は私には分からない。したがって、瑞宝十種の瀛都鏡と辺都鏡は、それぞれ「天照大神を招いた鏡」=「遠岐斯鏡」であり、別名の「真経津鏡」であるのだ。

   瀛都鏡は、「遠岐斯鏡」つまり「天照大神を招きし鏡」であり、天照大神の神魂として、また卑弥呼の霊代として、伊勢神宮内宮に奉祭されている(そのいきさつは、垂仁紀で詳述する)。実体は、仿製「八葉鈕座内行花文鏡」(『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』)である。別名の「真経津鏡」は、『古語拾遺』が記す「思兼神の謀通りに石凝姥神に日像の鏡を鋳造させた。 初めに鋳造した鏡は小さく意に合わなかった。これは紀伊の国の日前神(ひのくまのかみ)である」とあるように、日前國懸神宮に天照大神の神魂として奉祭されているのであろう。その「おきつ鏡」は、息津鏡(元伊勢籠神社神宝)と奥津鏡(応神天皇記天之日矛条)としてでてくる。元伊勢籠神社神宝の息津鏡は公開されており、後漢鏡の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」である(図6右)。「へつかがみ」も同じく元伊勢籠神社神宝の辺都鏡として公開されており、前漢鏡の「銘帯内行花文鏡」である(図6左)。応神天皇記天之日矛条にある天之日矛が持参した辺津鏡も、同じく「銘帯内行花文鏡」と判断される。これら二種の漢鏡は、それぞれ、瀛都鏡と真経津鏡のモデルであると、私は判断する。元伊勢籠神社社伝では、息津鏡と辺都鏡は、天神から彦火明命=饒速日命が拝受したという。籠神社の斎主は海部氏であり、饒速日の御子の天香語山の裔と、私は考える。天神は、当然、天照大神に神格化された台与となる。

内行花文鏡、左:銘帯内行花文鏡、
右:長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡
(元伊勢籠神社神宝 )
図6. 元伊勢籠神社神宝 左:辺都鏡(銘帯内行花文鏡)、
右:息津鏡(長宜子孫銘雲雷文内行花文)

   以上の様に、「天照大神神話」と史書(『先代旧事本紀』、『古語拾遺』)や社伝、および鏡という実物が、これで一つに繋がったのである。「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」は後漢鏡であり、240年、卑弥呼が魏の少帝から賜った銅鏡百枚の一鏡種とすることは、合理的である。先述した様に卑弥呼の事蹟を、猿女君が脚色し、伝承したのが「天照大神神話」であると私は考えている。

 「おきつ鏡」の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」は、卑弥呼が魏の皇帝から賜った銅鏡百枚の一鏡種であり、当然、複数枚あったはずである。台与と侍女が宮殿内で護ったそれらの鏡も、後に本州島などに東遷する邪馬台国連合の後裔に授けられた。このように考えると、邪馬台国の卑弥呼の一族、および邪馬台国周辺の国々を含めた邪馬台国連合の豪族や権力者もまた「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」を、台与から授かって本州島に東遷したといえよう。また、「へつ鏡」の「銘帯内行花文鏡」も東遷する豪族や権力者に授けられたはずである。
   天照大神、饒速日(天火明、天照国照彦天火明または天照国照彦天火明櫛玉饒速日)、饒速日を祖とする物部の氏族、天磐船の随行者および「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」を、邪馬台国の東遷をさぐるキーワードにする事ができると、私は考える。そのキーワードをもって弥生後期から古墳時代の遺跡をみてみたい。