十代崇神天皇
(2)践祚の日にたてまつる神の御璽の鏡と剣

   後日談がある。忌部=祭部氏の記録『古語拾遺』には、「至于礒城瑞垣朝、漸畏神威、同殿不安。故更令齋部氏、率石凝姥神裔天目一神裔二氏、更鑄鏡造劔、以爲護御璽。是、命践祚天之日所、獻神璽鏡劔也。」(磯城瑞籬の帝=崇神天皇の時代になって、暫くして、神威を畏れられ、同じ殿に居られると不安で有るため、 斎部氏に石凝姥神〔いしこりどめのかみ〕の末裔と天一箇神 〔あめひとつのかみ〕の末裔の二氏を率いさせて鏡を鋳造させ剣を作らせた。 是を護身の御璽とされた。是が今、践祚の日にたてまつる、神の御璽の鏡と剣である)とある。また、奈良県磯城郡田原本町にある、天照国照彦火明命を主祭神とする鏡作坐天照御魂神社の由緒には、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。
今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とある。この神社を奉祭した鏡師は、物部氏に属するといえる。その付近には鏡作伊多神社と鏡作麻気神社、および石見鏡作神社がある。石見鏡作神社は祭神を石凝姥神としている。
ここにあげた忌部氏と物部氏の伝承は同じ事を伝えているといえる。

   『紀』と『古語拾遺』の内容をあわせて読み解くと、崇神天皇は、国民の半数にのぼる疫病死を三輪山の神の祟りと信じ込み、自身も祟り殺されるのではないかと怖れていた。また、天照大神も祟っているように覚えたのであろう。それで、天照大神の形代(レプリカ)を鋳造し、形代を宮殿に祭り、本物の鏡を笠縫邑の磯城の神籬に遷座して、皇女豊鍬入姫に奉祭させたのである。崇神天皇が、神威を畏れるあまり、天照大神の形代を忌部氏と物部氏の鏡師に作らせたことは確かである。竹田恒泰氏『皇室のきょうかしょ』(Web)によれば「六十二代村上天皇の天徳四年(960年)、宮中が火事に遭い、鏡が温明殿ごと焼けてしまった。村上天皇の日記には、『三面の鏡が発見され、その中に、小さな傷のある直径八寸(約24cm)ほどの鏡が一面あった』と記されていた」という。崇神天皇の時代に、忌部氏と物部氏の配下の鏡師がそれぞれ形代を作り、遠岐斯鏡のモデルとなった後漢鏡を含めた三面が崇神天皇に献上されたと判断できる。そのうちの一面は、遠岐斯鏡の伝承通りの小疵を再現していたとみられる。これが真実であれば、天照大神の天の岩屋戸隠れの神話は、実話を反映している事になるといえよう。

   形代の鏡には「長宜子孫」銘はなかったであろう。おそらく斎部氏配下の鋳造師集団は漢字が理解出来なかったからである。そして、「長宜子孫」銘の無い仿製内行花文鏡が崇神王権から始まる大和王権の表徴となり、忌部氏に命じて、配下の鏡師に多数の仿製内行花文鏡を作らせた。仿製内行花文鏡は、皇族に贈られ、大和王権に臣従した豪族に下賜された。豪族は、死後、仿製内行花文鏡を権威の象徴の宝鏡として棺内に入れ、墳墓に埋葬された。このようにして、仿製内行花文鏡が全国の前方後円墳などの墳墓から多出するようになったのである。その詳細は拙書『三角縁神獣鏡が映す大和王権』(梓書院)で述べた。

   他方、剣は護身用に作らせているのだ。剣は鋳造とはしていないので、鍛鉄の横刀であろう。それが、践祚の日にたてまつる神の御璽の剣として宮中で継承されたことになる。『古事談』には陽成天皇(876〜884年)が発狂してこの
剣を抜いた話がのっている。やはり鉄刀となっている。もし、剣が形代として作られたのであれば、モデルは倭大国魂神ということになる。しかし倭大国魂神は八坂瓊(玉)であり、刀ではない。剣は、あくまでも崇神天皇の護身用に作られたのだ。では、なぜ、護身用なのか? それは、三輪山の神の大物主と倭大国魂神の祟りであり、「夢枕」から身を護るためである(祟りの正体については後述する)。
   それでは、なぜ、護身用に作られた剣が「草那芸之大刀(くさなぎのたち)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の形代といわれるのか?それは、唯一、『古語拾遺』が記す「至于礒城瑞垣朝、漸畏神威、云々、仍就於倭笠縫邑、殊立磯城神籬、奉遷天照大神及草薙劔。令皇女豊鍬入姫命奉齋焉。」に因っているといえる。『記紀』にこの記述は無い。つまり、「鏡が鋳造され、剣が作られ、(モデルとなった)天照大神と草薙劔が一緒に笠縫邑に建てられた磯城の神籬に遷され、豊鍬入姫が奉祭することになった」と伝えている。それ故に、後世、「草薙剣の形代も、天照大神の形代と同時に作られた」と解されたため、御璽の剣が草薙剣と称される様になったと考えたい。しかしながら、草那芸之大刀には「神」が付かないことから、草那芸之大刀が神威を現すことはないと理解して、護身用に作られた剣は、草那芸之大刀の形代ではないと、私は判断する。詳細は後述するが、草那芸之大刀は、出自および熱田神宮における後世の目撃談から、鋳造の青銅剣であり、鉄刀ではないと判断するからである。私は、護身用に作られた剣は、草那芸之大刀の形代ではないとしたい。それでは、いつ草那芸之大刀(草薙剣)が磯城の神籬に奉安されたのか? 答えは、「出雲の神宝」条で述べる。

   いずれにしても、ここで断言できる事は、「崇神天皇の時代に、初めて、宮中に伝わる『神璽の鏡と剣』が形作られた」ということである。