十代崇神天皇
(5)三輪山の神

   崇神十年、崇神天皇は、いわゆる四道将軍を全国に派遣する事になる。その中の一人、大叔父の大彦を北陸に向かわす。その途中童女が歌う童歌に不吉なものを感じた大彦は、都に引き返し、崇神天皇とその大姑(おおおば)の倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)に事の次第を奏上する。倭迹迹日百襲姫は、洞察力が強く、歌の怪を理解して、叔父の武埴安彦・吾田姫夫婦の謀反を察知する。天皇の軍勢は武埴安彦と吾田姫の軍隊を打ち破り、二人の謀反を鎮める。

   その後、倭迹迹日百襲姫は三輪山の神の大物主の妻となる。夫は夜に通ってくるだけで、その顔を見ることができなかった。そのことに日々不満を募らせた倭迹迹日百襲姫が、ある夜、是非顔が見たいと強引に迫った。そこで大物主は、「朝になったら櫛箱に入っているが、姿を見ても決して驚くなよ」と告げた。翌朝、櫛箱を開けた倭迹迹日百襲姫が中にいた美麗な小蛇を見て驚き叫ぶと、蛇はたちまち若者の姿となり、恥をかかされたことを激怒して、大空に飛び上がって三輪山に登ってしまった。それを見て自分の行為を後悔した倭迹迹日百襲姫は、箸で女陰を突き刺して自死してしまう。のちに倭迹迹日百襲姫が葬られる墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。それを人々は箸墓と呼んだ。これが、倭迹迹日百襲姫の蛇神婚譚である。

   三輪山の神は、『記紀』では、大穴牟遅=大國主の幸魂・奇魂であり、事代主および大物主と同じとみえる。幸魂・奇魂とみれば実体ではなく、事代主および大物主として実体とみれば、形姿威儀な壮夫で、面食い(若い美女好き)であることは間違いない。併せて考えれば、大國主の好色の奇魂が実体を持ったのが大物主といえるのではないだろうか。女遍歴では、最初は(神武記)、丹塗矢となって、大便をする勢夜陀多良姫を犯して富登多多良伊須須岐姫(ほとたたらいすすきひめ)を生ませる。この姫は長じて神武天皇の后となる。この共婚(まぐあい)の状況を岩波書店の『日本書紀』は面白く解説する。「美女の名前のセヤタタラのセヤは金属の鏃の矢、タタラは『立たれ』の古語、よって名前は『矢を立てられ』である。姫の取った行動の『いすすきき』は『ぶるぶるふるえた』を意味する」。従って、『姫は厠で女陰に丹塗矢をたてられ、ぶるぶるふるえた』と解する事が出来る。そして生まれた姫の名が「女陰に異物を挿入され、興奮の絶頂に身をぶるぶるふるわせている姫」と解する事が出来る。まさに古代のポルノグラフィーである。しかもその姫が神武天皇の皇后になっているのだ。この后の名前の解釈が正しいかどうかはわからないが、アンチ皇国史観の学者にかかると日本の初代天皇である神武天皇はすごくエロチック名前をもった姫を后にした事になる。ただし、『記』では媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)と言う名前なっている。また、次田真幸訳『古事記』では、丹塗矢は雷神の依代としているが、三輪山の神つまり大物主はもとから雷神であったというのか? そうではない。後付けである(雄略天皇紀七年条)。

   崇神五年の疫病の流行による住民の大量死、および六年の農民の離反と立て続けに起こった国難は、三輪山の大神の祟りであり、三輪山の大物主神を子孫の意富多々泥古(大田田根子)を神主として三輪山の大物主神を拝祭させることで、終息し、国家安平になった。意富多々泥古の祖の容姿端麗な活玉依姫にほれた三輪山神は類希な姿形威儀の壮夫であり、決して蛇男ではない。

   では、大和の元住民はなぜにそれほどまで三輪山を崇拝したのであろうか? それは、暦である。冬至の日の太陽は三輪山の山頂から昇り(図1)、二上山鞍部に沈んで行くのである。

 三輪山からの冬至の日の日出
図1. 三輪山からの冬至の日の日出
冬至は太陽の日照が一年で一番衰える日である。冬至を知る事は、暦を知る事であり、農作業には必須であった。春分と秋分の日は昼夜が同じ時時間になるが、山で囲まれた盆地では昼夜の時間測定も難しい。また、この両日には太陽は真東から昇り真西に沈むが、春分と秋分の日の昼夜の時間を正確に得る事が出来なければ東西の指標となる良い山を決める事ができなかったであろう。それで、冬至を示す三輪山が神聖視されたといえる。ちなみに伊勢神宮の宇治橋の鳥居も冬至の日に太陽が鳥居の間から昇るように建てられている。古代では冬至の日が「一年の終わり」を告げる日であったのだろう。冬至の日の認識が最も重要であったのだ。

   また、奈良盆地は、降雨量は決して多くない。現在でも灌漑用のため池がたくさんある。養魚者は、そのため池で錦鯉を飼育し、田植えのころにため池の水を田圃に排水し、錦鯉を収穫する。三輪山は標高500mに満たない山であるが、山に降った雨水は纏向の水耕には大変重要であったのである。国の基礎となっていた農業に重要な三輪神社の祭主権を、宇摩志麻治と物部氏が握ったのである。古代では、祭事は政治を動かすほどの強い力であった。政権は狗奴国後裔(神武=崇神天皇)に取られたが、祭祀権は邪馬台国後裔が掌握したのである。後で詳述するが、冬至の日の日没となる二上山の麓の高尾張邑(後の葛城邑)には、饒速日のもう一人の御子の天香語山が熊野邑から転身し、高尾張邑の姫と通婚して、後の尾張氏を興していたのだ。冬至の日の東西を饒速日の御子の宇摩志麻治と天香語山がそれぞれ掌握したのである。