十代崇神天皇
(15)治世年代

   最後に、崇神天皇治世の年代を、三角縁神獣鏡をてがかりとして論考してみよう。異体字を含む漢語の銘文を持った三角縁神獣鏡の作製は、陳氏、王氏、新氏などの「師出洛陽」の鏡師が洛陽から倭国に亡命してきた316年以後から始まったと推察できる。従って、銘文を持たない初期の三角縁神獣鏡の副葬の流行はそれ以前となる。仮に310年頃とすれば、神の祭祀の風潮が起こった崇神九年は310年頃となる。逆算すれば、崇神王朝は301年頃に成立したとみることもできる。『紀』に表わされている神武の暦年について、神武が四十五歳で東征のため日向を出発した申寅年を294年、吉備国へ到着した乙卯年を295年、そこを出発した戊午年を298年とし、神武天皇が橿原宮にて即位した辛酉年を301年とすることも可能である。神武は即位前に「日向を東に向かって出発してから6年間、・・・・」と述懐しているので、年紀のあてはめは妥当であろう。このようにしてみると神武天皇の即位年と崇神天皇の即位年はほぼ重なり合うことになる。また、陳氏、王氏、新氏などの「師出洛陽」の鏡師が316年頃に倭国に亡命したとすれば、前述したように崇神天皇が出雲大神の神宝を所望した崇神六十年は316年頃と推定できる。しかし崇神十七年の後、四十八年、六十年と事蹟の年号が大きく跳んでおり、崇神四十八年と六十年は偽年号であるといえる。従って、治世は二十年ほどとできよう。同様に、崇神天皇没年の六十八年も偽年号である。したがって、総合的に推論して、没年は320年頃、享年六十四、五歳とできよう。『記』が記す没年の戊寅318年であってもよいと私は考える。

   三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である纏向遺跡に、2011年、大型建物跡が見つかり、さらに東側から別の大型建物跡の一部も見つかった。建物跡の造営年代が三世紀後半以降と判明しており、今後、造営年代が四世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるといわれている。私は、この宮殿とも言われる大型建物は、崇神天皇の宮(磯城瑞籬宮)の一部と判断する。纏向遺跡に卑弥呼との関係を見いだそうとする説もあるが、卑弥呼が死後葬られたのは冢(『倭人伝』)であり墳墓ではない。箸墓を卑弥呼の陵墓とするのは全くの的外れである。従って、纏向遺跡に卑弥呼は全く関係ないと私は判断する。まして、卑弥呼が伊都国から纏向に遷幸してきたとする説は全く荒唐無稽と言わざるをえない。ただし、三世紀中期に邪馬台国後裔が纏向に東遷してきた事は大いに主張したい。

*参考までに、卑弥呼の銅鐸が出雲でつくられ始めたのが出雲平定の266年前後であり、崇神六年(307年)頃に銅鐸祭祀が禁止されたと考えると、流行期間はほぼ五十年なると、私は判断する。